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	<title>書籍に関する記事一覧 &#8211; 一般社団法人Integral Vision &amp; Practice（IVAP）</title>
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	<description>一般社団法人Integral Vision ＆ Practice（IVAP）では、成人の心の成長や問題解決能力の向上を目的とし、その目的に資するため、次の事業を行うことを目的としています。コーチング・セラピー・アセスメント・フィードバックや測定、各種講座・講演などのスキルトレーニングやワークショップを行っています。支援者育成、出版・翻訳、コンサルティングにつきましてはお問い合わせください。</description>
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		<title>日本人にとっての成人発達</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 19 Feb 2024 14:30:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[書籍]]></category>
		<category><![CDATA[アセスメント]]></category>
		<category><![CDATA[インテグラルコーチング／セラピー]]></category>
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					<description><![CDATA[斎藤 孝（2022）の『20歳の自分に伝えたい　知的生活のすすめ』（SB新書）という書籍を眺めていたところ、深く共感する記述があったので、備忘録としてメモしておきたい。 第１章に『なぜ昔の日本人には「...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[斎藤 孝（2022）の『20歳の自分に伝えたい　知的生活のすすめ』（SB新書）という書籍を眺めていたところ、深く共感する記述があったので、備忘録としてメモしておきたい。<br /><br />第１章に『なぜ昔の日本人には「人格の厚み」があったのか』という項目があるのだが、そこにこんな記述がある。<br /><br /> <br /><br />では、なぜ外部の目にさらされたとき、薄っぺらく感じさせられるのかといえば、それは現代人の内面世界が、その人自身の「気質」だけで構成されていて、その気質を下支えする土台や、柱・梁にあたるものがないからだと私は思います。<br /><br />明治から昭和初期までの日本人には、近世以前からずっと積み重ねられてきた身体文化や精神文化を人格の土台、梁・柱として活かす素地がありました。<br /><br />武士文化で考えてみましょう。武士というのは、自分たちの人格修養に関して、有利な立場にありました。なぜかといえば、彼らは宮本武蔵ほどの水準でなくても、剣術や弓、馬術の日常的な訓練を通じて、身体的な知性を自分の中に取り入れることができたからです。<br /><br />『葉隠』に「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という有名なフレーズが出てきますが、こうした死を自分の生と隣り合わせのものと意識しながら生きていく精神文化を、物心ついたころから叩き込まれ、教え込まれていました。<br /><br />こうしたものを日々の生活で人格として織り込まれていくことで、武士たちは彼ら個人の「気質」がどうであるかには関係なく、長じるに従い厚みのある「人格」を備えていくことができました。つまり、武士たちの個々の人格は、個人の資質ではなく、武士文化によってつくられたものなのです。<br /><br />それに対して現代では、明治の近代化、そして敗戦によって生じた価値観の大転換によって、こうした身体文化・精神文化の継承が妨げられたために、個人が個人の資質だけで勝負しなければいけなくなってしまいました。これでは人格までも薄っぺらく見えてしまうのも、仕方がありません。（pp. 50-51）<br /><br /> <br /><br />換言すれば、人間の人格とは、純粋に個人の「中」にあるものではなく、個人を支える文化的な叡智の地層に支えられて存在しているということである。<br /><br />そして、そうした地層との繋がりが断絶されてしまうとき、個人は、あたかも豊かな土壌との繋がりを絶たれた植物のように痩せ細ってしまうことになるのである。<br /><br />また、そうした状況においては、われわれは、人間の人格というものが、己の「中」に知識や経験や能力という「内容物」（contents）を蓄えた結果として成立するものとしてみなすようになる。<br /><br />少しでも希少価値のある知識や経験や能力を少しでも多く獲得することが、自己の人格を高めることだと錯覚してしまうのである。<br /><br />また、そこでは、そうしたものを獲得することは、あくまでも「自己責任」において為されるべきものとしてみなされることになる。<br /><br />たとえば、今日、巷でもてはやされている「生涯学習」や「自律的人材」といった言葉に象徴される「勉強」や「成長」や「発達」に対する脅迫的ともいえる関心は、人間の「人格」を実質的に「市場価値」と混同したうえで、そこに収納されている内容物を少しでも希少価値のあるものに更新しつづけることを善として妄信する危ういものといえるだろう。<br /><br />自己の「外」にある資源を少しでも多く自己の「内」に摂り込むことに必死になるのである。<br /><br />そこに息づいているのは、歴史的に継承されてきた豊かな文化的土壌と切り離されることが不可避的にもたらす己の矮小さに対する感覚であり、また、それがもたらす漠然とした不安である。<br /><br />それを克服しようと、われわれは必死に己の「中」に知識や体験や能力といわれる「内容物」を搔き集めようとするのである。<br /><br />しかし、こうした態度にもとづいて己を高めることに執着している限り、われわれは真に満たされることはない。<br /><br />あえていえば、それは、土壌に根を張り、そこに存在する豊穣な叡智の遺産にアクセスすることを忘れて、「書籍」や「トレイニング」や「授業」といった人工的なパッケージの中に自己を満たすための栄養源を探そうとすることに喩えることができるだろう。<br /><br />たとえそうした営みが一定の価値や効果をもつとしても、本質的なところでは、虚しさが付きまとうことになるのである。<br /><br />そして、そうした状態にとらわれていると、われわれは、個人を下支えしてくれる文化的土壌に繋がることを忘れてしまうだけでなく、そうした公共の土壌を豊かにするための努力を怠ることにもなる。<br /><br />結果として、その社会に生きる者全てが、己の「中」に「内容物」を詰め込むことに必死になり、個人を下支えしてくれるはずの共有財を豊かにすることには無関心になるのである。<br /><br /> <br /><br />こうした問題は、われわれの「発達」という概念の理解にも大きく関連している。<br /><br />今日、巷では「成人発達理論」がひろく注目を集めているが、「発達」という概念に関する深刻な誤解もひろく存在しているように思われる。<br /><br />その中でも特徴的なのが、ここで指摘しているように、発達というものを個人の「中」に起こるものとしてとらえる発想である。<br /><br />必然的に、そうした発想にとらわれてしまうと、発達を実現するために、少しでも多くの知識や経験を得たり、訓練や探求を積んだりすることばかりに関心が向いてしまうことになる。<br /><br />発達について考えるときには、そうした自力的な営みだけに視野狭窄してしまうのではなく、これまでの歴史をとおして蓄積されてきた叡智の大河に根を降ろし、それに自己の存在を明け渡すことをとおして高められたり、深められたりすることの価値を併せて認識する必要があるのである。<br /><br />実際、発達理論の基礎に息づいているのは、発達というものが常に環境との相互作用の中で展開するものであることを見つめる発想である。<br /><br />換言すれば、発達について考えるとは、個の「中」で起こる発達について考えるだけでなく、個が環境とのあいだにどのような関係を営んでいるかをみつめることなのである。<br /><br />端的に言えば、個の発達について語るためには、個をとりまく環境について洞察することが、そして、それがどのような影響を発達のプロセスにもたらしているかを検討することが求められるのである。<br /><br />たとえば、今日においては、われわれ日本人は、歴史的な文化遺産から疎外されてしまい、己の市場価値を高めることを至上の命令と受け留めて、最新の知識やトレイニングや経験を収集することに夢中になっている。<br /><br />当然のことながら、こうした態度は、われわれの人格の構造に大きな影響をあたえることになる。<br /><br />即ち、今日、われわれが知識や教養として得ているのは、あくまでも目の前の経済活動に資する実利的・実用的なそれであり、われわれの価値観や世界観を形成するための叡智は往々にして蔑ろにされるのである。<br /><br />また、そうした価値観や世界観を下支えすることになる身体性や霊性を涵養するための実践もほとんど顧みられることはない。<br /><br />これは、Lectica, Inc.の研究を参照するならば、堅牢な「具体」の基盤を構築することなしに、過剰なまでにーーまた時期尚早にーー「抽象」を肥大化させた人格を生み出すことになる。<br /><br />そして、半ば必然的に、発達のプロセスそのものを頓挫させることになるのである。<br /><br /> <br /><br />発達をするとは、ある意味では、外部との関係性を高めていくことである。<br /><br />換言すれば、それは外部に対する依存度を高めていくことであるともいえるかもしれない。<br /><br />優れた言語能力は、その共同体で語られている言語を内面化することにより可能となる。<br /><br />それはその言語に自己の存在をひらき、それにより自己の意識と思考が形成されること受け容れることで可能となるのである。<br /><br />優れた日本語の話者は、日本語という豊穣な伝統を知り尽くし、それを駆使して己の意思を表現する。<br /><br />あるいは、優れたオーケストラの指揮者は、卓越した音楽家と緊密な関係を築き、彼等に能力を最大限に発揮してもらうことで自己の音楽を最高の形態で表現しようとする。<br /><br />高い木は土壌に深く根を張り、土壌との関係を緊密にして、そこにある栄養に依存している。<br /><br />自己の「外」にあるものと緊密に結びつくことをとおして、「能力」は発揮されるのである。<br /><br />とりわけ、それが高度なものであればあるほどその結びつきは深いものとなる。<br /><br />そうした意味では、個の能力とは、単純にその人の「中」にあるのではなく、その人をとりまく多種多様な要素が結びつき、それらの全てが緊密に共同・共奏するプロセスの中に顕在化するものなのである。<br /><br />能力を高いレベルで発揮しようとすればするほど、われわれはそうした関係性に深く繋がる必要がある（これは、密室でひとり深く熟考しながら文章を執筆するときにも当てはまることになるーーそこでは執筆者は人類の叡智に深く繋がっているのである）。<br /><br /> <br /><br />こうしたことを鑑みれば、発達志向型支援というものが、本質的に、単純にクライアントを個人として支援するだけでなく、クライアントをとりまく「文脈」（context）を視野に容れて、それとの相互関係を豊かにするための支援となることが理解することできるだろう。<br /><br />また、クライアントに対しては、そうした相互関係を通して自己を成長させるだけでなく、そこに共同や共奏の仲間や同士となる他者に貢献するように動機づけることも重要になる。<br /><br />そうした循環が生まれるときに、はじめてわれわれはLectica, Inc.が示すVirtuous Cycle of Learningを廻すことができるのである。<br /><br /> <br /><br />但し、冒頭の引用の中で斎藤 孝が指摘しているように、今日、われわれ日本人が繋がることができているのは、われわれの身体性や霊性と乖離したものとして包装された抽象的な知識や技術や教養に傾斜している。<br /><br />今、巷で「リベラル・アーツ」の重要性が叫ばれているのは、こうした状況を鑑みてのことであろう。<br /><br />ただ、そこに問題があるとすれば、それは、そうしたまなびそのものがこれまでのそれと同じようなものとしてみなされていることにあるということだ。<br /><br />己の「中」に希少価値のある知識や教養を収集することが目的化してしまっているのである。<br /><br />また、そこには身体性や霊性といった要素が欠如しているために、学習者の死生観をはじめとする実存的な基盤を豊かにすることに十全に寄与しえない。<br /><br />単に己の「人材」として市場価値を高めるための道具に堕してしまう可能性があるのである。<br /><br /> <br /><br />こうした問題は、今後、日本という文脈において成人発達について真剣に検討していくうえで真に重要なものとなるだろう。<br /><br />]]></content:encoded>
					
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		<title>千葉 聡の『ダーウィンの呪い』 を読んで</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 28 Jan 2024 15:11:46 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[2024.01.28 Sunday 年末～年始に千葉 聡（2023）の『ダーウィンの呪い』 （講談社）を興味深く読んだ。 その内容は、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が歴史的に優生学的な発想や政策を...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>2024.01.28 Sunday</p>



<p>年末～年始に千葉 聡（2023）の『ダーウィンの呪い』 （講談社）を興味深く読んだ。</p>



<p>その内容は、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が歴史的に優生学的な発想や政策を支える理論として悪用されてきたことを辿るものである。</p>



<p>著者は総じて高い文章力をそなえた人ではあると思うが、部分的にーー特に著者の専門である進化生物学に関して言及する箇所においてはーー叙述が非常に言葉足らずになるところがあるために、読者としては混乱させられ、苛立ちを覚えるのだが（このあたりは完全に編集者の怠慢であろう）、この書籍の最も重要な箇所である中盤以降の優生学に関する議論に関しては、著者の問題意識が比較的に平易な言葉で熱く語られており、読者を魅惑し、また、深く考えさせる。</p>



<p>個人的に、この著書に惹かれた理由は、いうまでもなく、成人発達理論を日々の仕事の中で扱う立場にあるからである。</p>



<p>この数年のあいだ「成人発達理論」を様々な場面で紹介する中で「人間の成長・発達について研究する理論をいかに倫理的に扱うことができるか?」という問いがその重要性を急速に増していると実感する。</p>



<p>こうした理論に関する興味・関心が対人支援業界の中でひろく共有されるようになればなるほどに、その「魅力」に魅惑されて、その「危険性」に無意識になる危険性が高まっているように思われるからである。</p>



<p>危険性とは、即ち、この理論が、その利用の仕方によっては、優生学的に用いられる可能性があるということだ。</p>



<p>より具体的に言うならば、それは、特権的な立場にある人間が自身を基準にして人間の優劣を規定するための基準や枠組を作り、それにもとづいて人間を評価・選別・待遇する発想を根拠づけるものとして利用される可能性があるということである。</p>



<p>現代社会において「成功者」として位置づけられる人間を無批判に「高い」発達段階をそなえた優秀な人間として位置づけて、その特徴を人格的な成熟を示す条件や性質として錯覚するのである。</p>



<p>そして、そうした思考を正当化するために、発達理論が援用されるのである。</p>



<p>たとえば、いわゆる「ティール理論」が流行しはじめたばかりの頃は世の経営者達は自身を成功者と見做して、自身の性格や特性を高次の発達段階を示すものと判断して、周りの関係者（例：自組織の従業員）にそれらを習得するように奨励したり強要したりすることがあったと聞いているが、ここで謂わんとしているのは正にそうした発想である。</p>



<p>あるいは、悪名高いWorld Economic Forumもそれと同質の発想にもとづいて人類社会の再構築を企図しているといえる。</p>



<p>換言すれば、それは、その時代・社会の中で「富裕層」や「統治者」として社会的な権限や影響力を掌握した者達が、みずからの存在をとらえている意識や価値観や偏見にもとづいて社会を再構築しようとする発想である。</p>



<p>そして、人間の成長や発達に関する理論は、そうした発想を正当化するために用いられてしまうのである。</p>



<p>これまではそうした発想は「ダーウィンの進化論によれば……」という枕詞を添えて正当化されてきたが、今日においては、そこに「発達理論によれば……」という枕詞が加わる可能性が生まれてきているのである。</p>



<p>現在、Lectica, Inc.の主催する長期トレイニングに参加して、各国の研究者や実践者と定期的に対話をしているが、こうした問題に対して関係者は総じて非常に真摯に配慮しているようである。</p>



<p>実際、IQが歴史的に優生学的施策に活用されてきた事実を踏まえて、今日、技術的な進化に支えられて急速に高精度化している発達段階の測定技術を倫理的に用いるための方針についてトレイニングの中では議題としてしばしばとりあげられる。</p>



<p>いうまでもなく、この問いは多様な観点を通して検証探求されるべきものであるが、発達理論をあつかう者として特に留意すべきは、われわれがみずからが生きる時代や社会の中で信奉されている「物語」に半ば不可避的に呪縛されていることを自覚することであり、また、そこで「成長」や「成熟」を成し遂げた理想的な状態として設定されているものが、果たして理論的に妥当なものなのかを問うことである。</p>



<p>たとえば、数々の調査が示すように（c.f., Martha Stout (2005). The Sociopath Next Door: The Ruthless Versus the Rest of Us.）、現代社会はソシオパス/サイコパス的な人格特性をそなえた人間が成功しやすい場所であるが、そうした文脈の中で「成功者」として称賛されている者を「成長」や「成熟」の体現者と見做すことそのものが果たして妥当なことなのかという問いを発することが重要なのである。</p>



<p>みずからが生きる時代や社会の中でひろく営まれている「ゲーム」を前提として、そこで「勝利」を収めるための能力を獲得することが人間としての成長や成熟であると発想するのはーーそして、そうした発想を正当化するために心理学を利用するのはーーあまりにも短絡的であり、また、危険なことであろう。</p>



<p>確かに、人間は常に特定の時代や社会に生れ落とされ、その文脈の中で求められる「成長」や「発達」を実現するように鼓舞・強要されることになる。</p>



<p>しかし、人間はまたそうした文脈そのものを対象化して、それについて批判的に検証し超克できる存在でもある。</p>



<p>発達心理学の重要な役割のひとつは、正にそうした施策を支えることにあるといえる。</p>



<p>結局のところ、優生学的発想とは、そうした文脈の中でひろく共有されている物語に立脚して繰りひろげられている「ゲーム」に集団（例：民族・国家・企業）として勝利することができるように、そこに生きる人々を人為的に改良しようとする発想に起因するものである。</p>



<p>ケン・ウィルバー（Ken Wilber）のインテグラル思想においては、こうした発想は、個人を集合の構成要素として位置づけて、個人を純粋に全体の福利に貢献するための存在として見做す全体主義そのものとして理解される（その意味では、個人を生態系という全体の構成要素と見做して、全体の持続可能性のために個人の尊厳や権限を制限することを是とする今日の持続可能性思考は、そうした全体主義的な発想の亜種といえるのである）。</p>



<p>千葉は第7章で優生政策には大別して二つの種類があると説明している（pp. 193-194）。</p>



<p>①&nbsp;&nbsp; &nbsp;「優秀」と見なした人々の「繁殖」を推奨し、遺伝的に「優れた」人の比率を増やす政策。これを正の優生政策という。<br>②&nbsp;&nbsp; &nbsp;「劣る」と看做した人々を排除、あるいはその「繁殖」を抑制し、遺伝的に「劣った」人の比率を下げる政策。これを負の優生政策という。</p>



<p>富の格差が極大化しつつある今日の社会において、われわれがそこで展開される政治的な施策について検討していくうえで、それらの施策をーーその表面上の意図にかかわらずーーこうした優生学の知見を通して批判的に眺めることは非常に重要であるといえる。</p>



<p>たとえば、「それらの施策は、そこに生きる人間をどのような仕組や基準を用いて分類しようとするのか?、また、そのようにして分類されたそれぞれのグルプをどのように処遇しようとするのか?」――といった問いは、その表面的な装いに惑わされずに、それが社会にあたえる影響について的確に理解するためには、われわれが発すべき必須の問いといえるだろう。</p>



<p>今日の自己責任論が席巻する新自由主義社会の中では、経済的な競争の中で敗北した者達は、正にそのことをもって半ば自動的に繁殖を奨励すべきではない「劣った」存在として見做されて、困窮状態にいっそう追い込まれていくことになる（とりわけ、消費税は、そうした貧困層の再生産装置として非常に効果的に機能する）。</p>



<p>また、いうまでもなく、その背景には、非常に限定的な領域の能力に着目して人間を「勝者」と「敗者」に選別するための仕組として機能する学校制度が存在する。</p>



<p>油断をすると、発達理論のような理論は、こうした選別の実践に貢献するものとして利用されてしまうのである（実際、IQ測定は今日に至るまで正にそのようなものとして利用されている）。</p>



<p>また、成人を対象にした場合には、発達理論は、「成人発達理論」として装いを変えて、「優秀人材」と「劣等人材」を峻別して、社会の中で展開される経済競争というゲームに参加するための立場や役割を個々人に割り当てる機能を果たすことになる。</p>



<p>とりわけ、「能力主義」（meritocracy）を大義として、倫理的責任を一顧だにしない利己的な態度や発想が「優秀」といわれる階層にひろく蔓延する今日の状況の中では（こうした状況はしばしば「kakistocracy=government by the worst」と形容される）、活用の仕方を間違えば、成人発達理論は社会の格差の拡大に積極的に寄与することになってしまうことになる。</p>



<p>この領域の関係者（研究者・実践者）に倫理的な観点が求められる所以である。</p>



<p>また、こうした問題意識は、技術の急速な進歩により、人間の内面そのものが恒常的な監視と管理の対象となる監視社会が到来しようとしている今日の序社会状況下においては、ますますその重要性を増すことになるだろう。</p>



<p>正にわれわれの心そのものが戦場となろうとしているのである。</p>
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