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	<title>一般社団法人Integral Vision &amp; Practice（IVAP）</title>
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	<description>一般社団法人Integral Vision ＆ Practice（IVAP）では、成人の心の成長や問題解決能力の向上を目的とし、その目的に資するため、次の事業を行うことを目的としています。コーチング・セラピー・アセスメント・フィードバックや測定、各種講座・講演などのスキルトレーニングやワークショップを行っています。支援者育成、出版・翻訳、コンサルティングにつきましてはお問い合わせください。</description>
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		<title>日本人にとっての成人発達</title>
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		<pubDate>Mon, 19 Feb 2024 14:30:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[書籍]]></category>
		<category><![CDATA[アセスメント]]></category>
		<category><![CDATA[インテグラルコーチング／セラピー]]></category>
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					<description><![CDATA[斎藤 孝（2022）の『20歳の自分に伝えたい　知的生活のすすめ』（SB新書）という書籍を眺めていたところ、深く共感する記述があったので、備忘録としてメモしておきたい。 第１章に『なぜ昔の日本人には「...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[斎藤 孝（2022）の『20歳の自分に伝えたい　知的生活のすすめ』（SB新書）という書籍を眺めていたところ、深く共感する記述があったので、備忘録としてメモしておきたい。<br /><br />第１章に『なぜ昔の日本人には「人格の厚み」があったのか』という項目があるのだが、そこにこんな記述がある。<br /><br /> <br /><br />では、なぜ外部の目にさらされたとき、薄っぺらく感じさせられるのかといえば、それは現代人の内面世界が、その人自身の「気質」だけで構成されていて、その気質を下支えする土台や、柱・梁にあたるものがないからだと私は思います。<br /><br />明治から昭和初期までの日本人には、近世以前からずっと積み重ねられてきた身体文化や精神文化を人格の土台、梁・柱として活かす素地がありました。<br /><br />武士文化で考えてみましょう。武士というのは、自分たちの人格修養に関して、有利な立場にありました。なぜかといえば、彼らは宮本武蔵ほどの水準でなくても、剣術や弓、馬術の日常的な訓練を通じて、身体的な知性を自分の中に取り入れることができたからです。<br /><br />『葉隠』に「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という有名なフレーズが出てきますが、こうした死を自分の生と隣り合わせのものと意識しながら生きていく精神文化を、物心ついたころから叩き込まれ、教え込まれていました。<br /><br />こうしたものを日々の生活で人格として織り込まれていくことで、武士たちは彼ら個人の「気質」がどうであるかには関係なく、長じるに従い厚みのある「人格」を備えていくことができました。つまり、武士たちの個々の人格は、個人の資質ではなく、武士文化によってつくられたものなのです。<br /><br />それに対して現代では、明治の近代化、そして敗戦によって生じた価値観の大転換によって、こうした身体文化・精神文化の継承が妨げられたために、個人が個人の資質だけで勝負しなければいけなくなってしまいました。これでは人格までも薄っぺらく見えてしまうのも、仕方がありません。（pp. 50-51）<br /><br /> <br /><br />換言すれば、人間の人格とは、純粋に個人の「中」にあるものではなく、個人を支える文化的な叡智の地層に支えられて存在しているということである。<br /><br />そして、そうした地層との繋がりが断絶されてしまうとき、個人は、あたかも豊かな土壌との繋がりを絶たれた植物のように痩せ細ってしまうことになるのである。<br /><br />また、そうした状況においては、われわれは、人間の人格というものが、己の「中」に知識や経験や能力という「内容物」（contents）を蓄えた結果として成立するものとしてみなすようになる。<br /><br />少しでも希少価値のある知識や経験や能力を少しでも多く獲得することが、自己の人格を高めることだと錯覚してしまうのである。<br /><br />また、そこでは、そうしたものを獲得することは、あくまでも「自己責任」において為されるべきものとしてみなされることになる。<br /><br />たとえば、今日、巷でもてはやされている「生涯学習」や「自律的人材」といった言葉に象徴される「勉強」や「成長」や「発達」に対する脅迫的ともいえる関心は、人間の「人格」を実質的に「市場価値」と混同したうえで、そこに収納されている内容物を少しでも希少価値のあるものに更新しつづけることを善として妄信する危ういものといえるだろう。<br /><br />自己の「外」にある資源を少しでも多く自己の「内」に摂り込むことに必死になるのである。<br /><br />そこに息づいているのは、歴史的に継承されてきた豊かな文化的土壌と切り離されることが不可避的にもたらす己の矮小さに対する感覚であり、また、それがもたらす漠然とした不安である。<br /><br />それを克服しようと、われわれは必死に己の「中」に知識や体験や能力といわれる「内容物」を搔き集めようとするのである。<br /><br />しかし、こうした態度にもとづいて己を高めることに執着している限り、われわれは真に満たされることはない。<br /><br />あえていえば、それは、土壌に根を張り、そこに存在する豊穣な叡智の遺産にアクセスすることを忘れて、「書籍」や「トレイニング」や「授業」といった人工的なパッケージの中に自己を満たすための栄養源を探そうとすることに喩えることができるだろう。<br /><br />たとえそうした営みが一定の価値や効果をもつとしても、本質的なところでは、虚しさが付きまとうことになるのである。<br /><br />そして、そうした状態にとらわれていると、われわれは、個人を下支えしてくれる文化的土壌に繋がることを忘れてしまうだけでなく、そうした公共の土壌を豊かにするための努力を怠ることにもなる。<br /><br />結果として、その社会に生きる者全てが、己の「中」に「内容物」を詰め込むことに必死になり、個人を下支えしてくれるはずの共有財を豊かにすることには無関心になるのである。<br /><br /> <br /><br />こうした問題は、われわれの「発達」という概念の理解にも大きく関連している。<br /><br />今日、巷では「成人発達理論」がひろく注目を集めているが、「発達」という概念に関する深刻な誤解もひろく存在しているように思われる。<br /><br />その中でも特徴的なのが、ここで指摘しているように、発達というものを個人の「中」に起こるものとしてとらえる発想である。<br /><br />必然的に、そうした発想にとらわれてしまうと、発達を実現するために、少しでも多くの知識や経験を得たり、訓練や探求を積んだりすることばかりに関心が向いてしまうことになる。<br /><br />発達について考えるときには、そうした自力的な営みだけに視野狭窄してしまうのではなく、これまでの歴史をとおして蓄積されてきた叡智の大河に根を降ろし、それに自己の存在を明け渡すことをとおして高められたり、深められたりすることの価値を併せて認識する必要があるのである。<br /><br />実際、発達理論の基礎に息づいているのは、発達というものが常に環境との相互作用の中で展開するものであることを見つめる発想である。<br /><br />換言すれば、発達について考えるとは、個の「中」で起こる発達について考えるだけでなく、個が環境とのあいだにどのような関係を営んでいるかをみつめることなのである。<br /><br />端的に言えば、個の発達について語るためには、個をとりまく環境について洞察することが、そして、それがどのような影響を発達のプロセスにもたらしているかを検討することが求められるのである。<br /><br />たとえば、今日においては、われわれ日本人は、歴史的な文化遺産から疎外されてしまい、己の市場価値を高めることを至上の命令と受け留めて、最新の知識やトレイニングや経験を収集することに夢中になっている。<br /><br />当然のことながら、こうした態度は、われわれの人格の構造に大きな影響をあたえることになる。<br /><br />即ち、今日、われわれが知識や教養として得ているのは、あくまでも目の前の経済活動に資する実利的・実用的なそれであり、われわれの価値観や世界観を形成するための叡智は往々にして蔑ろにされるのである。<br /><br />また、そうした価値観や世界観を下支えすることになる身体性や霊性を涵養するための実践もほとんど顧みられることはない。<br /><br />これは、Lectica, Inc.の研究を参照するならば、堅牢な「具体」の基盤を構築することなしに、過剰なまでにーーまた時期尚早にーー「抽象」を肥大化させた人格を生み出すことになる。<br /><br />そして、半ば必然的に、発達のプロセスそのものを頓挫させることになるのである。<br /><br /> <br /><br />発達をするとは、ある意味では、外部との関係性を高めていくことである。<br /><br />換言すれば、それは外部に対する依存度を高めていくことであるともいえるかもしれない。<br /><br />優れた言語能力は、その共同体で語られている言語を内面化することにより可能となる。<br /><br />それはその言語に自己の存在をひらき、それにより自己の意識と思考が形成されること受け容れることで可能となるのである。<br /><br />優れた日本語の話者は、日本語という豊穣な伝統を知り尽くし、それを駆使して己の意思を表現する。<br /><br />あるいは、優れたオーケストラの指揮者は、卓越した音楽家と緊密な関係を築き、彼等に能力を最大限に発揮してもらうことで自己の音楽を最高の形態で表現しようとする。<br /><br />高い木は土壌に深く根を張り、土壌との関係を緊密にして、そこにある栄養に依存している。<br /><br />自己の「外」にあるものと緊密に結びつくことをとおして、「能力」は発揮されるのである。<br /><br />とりわけ、それが高度なものであればあるほどその結びつきは深いものとなる。<br /><br />そうした意味では、個の能力とは、単純にその人の「中」にあるのではなく、その人をとりまく多種多様な要素が結びつき、それらの全てが緊密に共同・共奏するプロセスの中に顕在化するものなのである。<br /><br />能力を高いレベルで発揮しようとすればするほど、われわれはそうした関係性に深く繋がる必要がある（これは、密室でひとり深く熟考しながら文章を執筆するときにも当てはまることになるーーそこでは執筆者は人類の叡智に深く繋がっているのである）。<br /><br /> <br /><br />こうしたことを鑑みれば、発達志向型支援というものが、本質的に、単純にクライアントを個人として支援するだけでなく、クライアントをとりまく「文脈」（context）を視野に容れて、それとの相互関係を豊かにするための支援となることが理解することできるだろう。<br /><br />また、クライアントに対しては、そうした相互関係を通して自己を成長させるだけでなく、そこに共同や共奏の仲間や同士となる他者に貢献するように動機づけることも重要になる。<br /><br />そうした循環が生まれるときに、はじめてわれわれはLectica, Inc.が示すVirtuous Cycle of Learningを廻すことができるのである。<br /><br /> <br /><br />但し、冒頭の引用の中で斎藤 孝が指摘しているように、今日、われわれ日本人が繋がることができているのは、われわれの身体性や霊性と乖離したものとして包装された抽象的な知識や技術や教養に傾斜している。<br /><br />今、巷で「リベラル・アーツ」の重要性が叫ばれているのは、こうした状況を鑑みてのことであろう。<br /><br />ただ、そこに問題があるとすれば、それは、そうしたまなびそのものがこれまでのそれと同じようなものとしてみなされていることにあるということだ。<br /><br />己の「中」に希少価値のある知識や教養を収集することが目的化してしまっているのである。<br /><br />また、そこには身体性や霊性といった要素が欠如しているために、学習者の死生観をはじめとする実存的な基盤を豊かにすることに十全に寄与しえない。<br /><br />単に己の「人材」として市場価値を高めるための道具に堕してしまう可能性があるのである。<br /><br /> <br /><br />こうした問題は、今後、日本という文脈において成人発達について真剣に検討していくうえで真に重要なものとなるだろう。<br /><br />]]></content:encoded>
					
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		<title>千葉 聡の『ダーウィンの呪い』 を読んで</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 28 Jan 2024 15:11:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[書籍]]></category>
		<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[2024.01.28 Sunday 年末～年始に千葉 聡（2023）の『ダーウィンの呪い』 （講談社）を興味深く読んだ。 その内容は、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が歴史的に優生学的な発想や政策を...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>2024.01.28 Sunday</p>



<p>年末～年始に千葉 聡（2023）の『ダーウィンの呪い』 （講談社）を興味深く読んだ。</p>



<p>その内容は、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が歴史的に優生学的な発想や政策を支える理論として悪用されてきたことを辿るものである。</p>



<p>著者は総じて高い文章力をそなえた人ではあると思うが、部分的にーー特に著者の専門である進化生物学に関して言及する箇所においてはーー叙述が非常に言葉足らずになるところがあるために、読者としては混乱させられ、苛立ちを覚えるのだが（このあたりは完全に編集者の怠慢であろう）、この書籍の最も重要な箇所である中盤以降の優生学に関する議論に関しては、著者の問題意識が比較的に平易な言葉で熱く語られており、読者を魅惑し、また、深く考えさせる。</p>



<p>個人的に、この著書に惹かれた理由は、いうまでもなく、成人発達理論を日々の仕事の中で扱う立場にあるからである。</p>



<p>この数年のあいだ「成人発達理論」を様々な場面で紹介する中で「人間の成長・発達について研究する理論をいかに倫理的に扱うことができるか?」という問いがその重要性を急速に増していると実感する。</p>



<p>こうした理論に関する興味・関心が対人支援業界の中でひろく共有されるようになればなるほどに、その「魅力」に魅惑されて、その「危険性」に無意識になる危険性が高まっているように思われるからである。</p>



<p>危険性とは、即ち、この理論が、その利用の仕方によっては、優生学的に用いられる可能性があるということだ。</p>



<p>より具体的に言うならば、それは、特権的な立場にある人間が自身を基準にして人間の優劣を規定するための基準や枠組を作り、それにもとづいて人間を評価・選別・待遇する発想を根拠づけるものとして利用される可能性があるということである。</p>



<p>現代社会において「成功者」として位置づけられる人間を無批判に「高い」発達段階をそなえた優秀な人間として位置づけて、その特徴を人格的な成熟を示す条件や性質として錯覚するのである。</p>



<p>そして、そうした思考を正当化するために、発達理論が援用されるのである。</p>



<p>たとえば、いわゆる「ティール理論」が流行しはじめたばかりの頃は世の経営者達は自身を成功者と見做して、自身の性格や特性を高次の発達段階を示すものと判断して、周りの関係者（例：自組織の従業員）にそれらを習得するように奨励したり強要したりすることがあったと聞いているが、ここで謂わんとしているのは正にそうした発想である。</p>



<p>あるいは、悪名高いWorld Economic Forumもそれと同質の発想にもとづいて人類社会の再構築を企図しているといえる。</p>



<p>換言すれば、それは、その時代・社会の中で「富裕層」や「統治者」として社会的な権限や影響力を掌握した者達が、みずからの存在をとらえている意識や価値観や偏見にもとづいて社会を再構築しようとする発想である。</p>



<p>そして、人間の成長や発達に関する理論は、そうした発想を正当化するために用いられてしまうのである。</p>



<p>これまではそうした発想は「ダーウィンの進化論によれば……」という枕詞を添えて正当化されてきたが、今日においては、そこに「発達理論によれば……」という枕詞が加わる可能性が生まれてきているのである。</p>



<p>現在、Lectica, Inc.の主催する長期トレイニングに参加して、各国の研究者や実践者と定期的に対話をしているが、こうした問題に対して関係者は総じて非常に真摯に配慮しているようである。</p>



<p>実際、IQが歴史的に優生学的施策に活用されてきた事実を踏まえて、今日、技術的な進化に支えられて急速に高精度化している発達段階の測定技術を倫理的に用いるための方針についてトレイニングの中では議題としてしばしばとりあげられる。</p>



<p>いうまでもなく、この問いは多様な観点を通して検証探求されるべきものであるが、発達理論をあつかう者として特に留意すべきは、われわれがみずからが生きる時代や社会の中で信奉されている「物語」に半ば不可避的に呪縛されていることを自覚することであり、また、そこで「成長」や「成熟」を成し遂げた理想的な状態として設定されているものが、果たして理論的に妥当なものなのかを問うことである。</p>



<p>たとえば、数々の調査が示すように（c.f., Martha Stout (2005). The Sociopath Next Door: The Ruthless Versus the Rest of Us.）、現代社会はソシオパス/サイコパス的な人格特性をそなえた人間が成功しやすい場所であるが、そうした文脈の中で「成功者」として称賛されている者を「成長」や「成熟」の体現者と見做すことそのものが果たして妥当なことなのかという問いを発することが重要なのである。</p>



<p>みずからが生きる時代や社会の中でひろく営まれている「ゲーム」を前提として、そこで「勝利」を収めるための能力を獲得することが人間としての成長や成熟であると発想するのはーーそして、そうした発想を正当化するために心理学を利用するのはーーあまりにも短絡的であり、また、危険なことであろう。</p>



<p>確かに、人間は常に特定の時代や社会に生れ落とされ、その文脈の中で求められる「成長」や「発達」を実現するように鼓舞・強要されることになる。</p>



<p>しかし、人間はまたそうした文脈そのものを対象化して、それについて批判的に検証し超克できる存在でもある。</p>



<p>発達心理学の重要な役割のひとつは、正にそうした施策を支えることにあるといえる。</p>



<p>結局のところ、優生学的発想とは、そうした文脈の中でひろく共有されている物語に立脚して繰りひろげられている「ゲーム」に集団（例：民族・国家・企業）として勝利することができるように、そこに生きる人々を人為的に改良しようとする発想に起因するものである。</p>



<p>ケン・ウィルバー（Ken Wilber）のインテグラル思想においては、こうした発想は、個人を集合の構成要素として位置づけて、個人を純粋に全体の福利に貢献するための存在として見做す全体主義そのものとして理解される（その意味では、個人を生態系という全体の構成要素と見做して、全体の持続可能性のために個人の尊厳や権限を制限することを是とする今日の持続可能性思考は、そうした全体主義的な発想の亜種といえるのである）。</p>



<p>千葉は第7章で優生政策には大別して二つの種類があると説明している（pp. 193-194）。</p>



<p>①&nbsp;&nbsp; &nbsp;「優秀」と見なした人々の「繁殖」を推奨し、遺伝的に「優れた」人の比率を増やす政策。これを正の優生政策という。<br>②&nbsp;&nbsp; &nbsp;「劣る」と看做した人々を排除、あるいはその「繁殖」を抑制し、遺伝的に「劣った」人の比率を下げる政策。これを負の優生政策という。</p>



<p>富の格差が極大化しつつある今日の社会において、われわれがそこで展開される政治的な施策について検討していくうえで、それらの施策をーーその表面上の意図にかかわらずーーこうした優生学の知見を通して批判的に眺めることは非常に重要であるといえる。</p>



<p>たとえば、「それらの施策は、そこに生きる人間をどのような仕組や基準を用いて分類しようとするのか?、また、そのようにして分類されたそれぞれのグルプをどのように処遇しようとするのか?」――といった問いは、その表面的な装いに惑わされずに、それが社会にあたえる影響について的確に理解するためには、われわれが発すべき必須の問いといえるだろう。</p>



<p>今日の自己責任論が席巻する新自由主義社会の中では、経済的な競争の中で敗北した者達は、正にそのことをもって半ば自動的に繁殖を奨励すべきではない「劣った」存在として見做されて、困窮状態にいっそう追い込まれていくことになる（とりわけ、消費税は、そうした貧困層の再生産装置として非常に効果的に機能する）。</p>



<p>また、いうまでもなく、その背景には、非常に限定的な領域の能力に着目して人間を「勝者」と「敗者」に選別するための仕組として機能する学校制度が存在する。</p>



<p>油断をすると、発達理論のような理論は、こうした選別の実践に貢献するものとして利用されてしまうのである（実際、IQ測定は今日に至るまで正にそのようなものとして利用されている）。</p>



<p>また、成人を対象にした場合には、発達理論は、「成人発達理論」として装いを変えて、「優秀人材」と「劣等人材」を峻別して、社会の中で展開される経済競争というゲームに参加するための立場や役割を個々人に割り当てる機能を果たすことになる。</p>



<p>とりわけ、「能力主義」（meritocracy）を大義として、倫理的責任を一顧だにしない利己的な態度や発想が「優秀」といわれる階層にひろく蔓延する今日の状況の中では（こうした状況はしばしば「kakistocracy=government by the worst」と形容される）、活用の仕方を間違えば、成人発達理論は社会の格差の拡大に積極的に寄与することになってしまうことになる。</p>



<p>この領域の関係者（研究者・実践者）に倫理的な観点が求められる所以である。</p>



<p>また、こうした問題意識は、技術の急速な進歩により、人間の内面そのものが恒常的な監視と管理の対象となる監視社会が到来しようとしている今日の序社会状況下においては、ますますその重要性を増すことになるだろう。</p>



<p>正にわれわれの心そのものが戦場となろうとしているのである。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>成人発達論：取扱上の注意</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 20 Jan 2024 15:07:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」 改革や自助努力、闘いの勝利を期待する企業経営者や政治家、それに政権与党の広報などが大好きな言葉で...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p><em>「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」</em></p>



<p><em>改革や自助努力、闘いの勝利を期待する企業経営者や政治家、それに政権与党の広報などが大好きな言葉である。「ダーウィンの呪い」の象徴的存在と言える。だがこの言葉を使っている人の思惑とは裏腹に、実はこの言葉はダーウィンの言葉ではない。</em></p>



<p>千葉 聡（2023）『ダーウィンの呪い』 講談社 （P. 90）</p>



<p>対象とするクライアントの年齢を問わず、対人支援に携わる者にとり、「成長」・「発達」・「進化」という概念をいかに解釈するかという問いは非常に重要になる。</p>



<p>そうした概念をいかに解釈するかにより、支援者の実践が大きく変化することになるからである。</p>



<p>端的に言えば、それらの概念の解釈を誤ると、支援者は容易に優生学的発想に陥り、完全なる善意にもとづいて、識らず識らずのうちに人間の尊厳を蹂躙するようなことをしてしまうことになるのである。</p>



<p>特に近年ひろく注目を集めている「成人発達理論」に興味・関心を寄せている者にとっては、これは最も重要な検討課題のひとつであるといえる。</p>



<p>成人発達理論の文脈においては、クライアントが社会的・経済的な活動に従事する成人であるために、人間の成長・発達は常にその実利的な価値と密接に繋げられて扱われることになる。</p>



<p>端的に言えば、「成長や発達をすることは、今日の経済システムにおける市場価値（価値創造能力）を高めることに寄与するのか?」という問いに恒常的に晒されることになるのである。</p>



<p>たとえば、成人発達理論を組織運営に応用したこころみのひとつである「ティール理論」は、正に「組織を発達させることがその価値創造能力を高めることに貢献する」という物語に立脚したものといえるが、そこでは、「成長」「発達」というものが所与の社会的制度や体制の中で求められる機能や能力を向上させるものとして解釈される傾向にある。</p>



<p>換言すれば、その発想は次のようにまとめることができるだろう。</p>



<p>「急激に変化している現代社会に適応し、そこで顧客に選ばれる企業としてありつづけるためには、卓越した能力を獲得する必要がある。そして、それらの能力こそがティール段階の能力なのである」</p>



<p>しかし、ここでわれわれが注意すべきは、こうした発想が、基本的には、われわれが前提とする価値観や世界観を前提とした成長や発達の物語にもとづいて「期待される能力」を構想していることである。</p>



<p>そこでは半ば必然的にわれわれの意識を呪縛する価値観や世界観の投影が起ることになる。</p>



<p>「今後 期待される人物像や組織像」とは、今われわれが生きているこの世界の延長線上にある未来の世界の中でわれわれの生存可能性を高めてくれる諸々の能力を要素として構想されることになるのである。</p>



<p>しかし、そうした一連の思考そのものは、今日の社会の価値観や世界観の形成に巨大な影響を及ぼす支配層の思惑を反映したものとならざるをえない。</p>



<p>思想家のユルゲン・ハバーマスは（Jurgen Habermas）は現代社会の特徴を「公共空間の再封建化」（”refeudalization of the public sphere”）という言葉で示したが（公共空間の中で営まれる言論活動は、報道機関や研究機関や教育機関や情報網をはじめとする諸々の社会的な装置を通して営まれるが、それが非常に少数の富豪により占有され、表面的には言論の自由が保障されているようにみえるが、実際には巧妙に言論活動が制限・操作されている状況を示す概念）、現代社会のようにごく少数の人間や組織に富の集中が極度に高まり寡頭制が極端に進展した社会においては、そうした傾向は不可避的に高まることになるだろう。</p>



<p>即ち、期待される人間像や組織像は、現代社会の支配構造を維持・強化する方向で構想され、また、そのために都合のいい能力が美化され、そしてそれを開発するためのとりくみが奨励されることになるである。</p>



<p>また、そうした能力の開発度を測定するための様々な測定が用意され、外的な期待に沿って能力開発に従順に勤しむ態度がひろく涵養されていくことになる。</p>



<p>実際、今日、「ティール・ムーヴメント」の傘のもとで様々な善意の活動が展開されているが、そこで、上記のハバーマス問題意識を継承して、富の一極集中をはじめとする真に重要な構造的な問題に対して問題提起をしているものは非常に少ない。</p>



<p>大多数は、あくまでも現代社会の中であたえられている構造の枠組の中で組織が生存・発展していくための方法を探求したり、あるいは、そうした構造の持続可能性を高めていくための方法を模索したりするものに留まっているのである。</p>



<p>実際、ティール的発想の重要要件として、人類社会の支配構造そのものに目を向けて、その構造そのものを変化・変容させるための批判的な精神やスキルや態度を涵養することが指摘されることはほとんど無い。</p>



<p>われわれは同時代の支配的な価値観や世界観の呪縛から完全に自由になることはできない。</p>



<p>それゆえに、みずからの生きる社会で信奉される物語に絡めとられ、その文脈で称揚される徳を開発することに夢中になってしまう。</p>



<p>そうした文脈の中では、成長や発達という概念はあまりにも容易に社会の支配的なイデオロギーを維持・強化し、また、そこに存在する支配構造を肯定するための道具に成り果てる危険性を秘めている。</p>



<p>20世紀においては、それは、国を強靭化するために貢献できる人材としての能力を意味していた。</p>



<p>そして、21世紀においては、それは人類社会の持続可能性を高めるために貢献できる人材としての能力を意味する。</p>



<p>いずれも、一見すると真当なものに思われるがーー特にその時代の空気の中でそれらは正に正義を体現するものとみなされることだろうーーしかし、少し醒めて眺めてみれば、そこには本質的な意味で個を集合体（collective）の構成要因として位置づけ、その使命を集合体に貢献・奉仕することに見出す全体主義的発想が厳然と息づいていることに気づくだろう。</p>



<p>また、そうした発想が先鋭化するときには、全体性に貢献できない存在をーー全体性を弱体化する存在をーー矯正や排除や処分の対象としてみなす発想が市民権を得ることにもなる（歴史的に人類社会の深層に息づく優生主義的衝動は、それが顕在化するための条件が整うと瞬時に社会の表舞台にあらわれ人々を呪縛することになる）。</p>



<p>そうした状況においては、成長や発達という概念はーーまた、それを把握するための測定はーーそうした矯正や排除や処分を正当化するための道具になりえるのである。</p>



<p>フーコー（Michel Foucault）をはじめとする思想家達が指摘するように、「正常」と「異常」を分類するための道具として用いられる医療的な診断はしばしば人間の尊厳を踏みにじる暴力装置となりえるが、正に、成長や発達の度合いを把握するための心理測定は、所与の価値観や世界観に対する従順性や適応性を測るための道具となりえるのである。</p>



<p>そして、それはそのままその時代を支配するイデオロギーを実現するために都合のいい「正常者」とそうでない「異常者」を分類するための道具になりえるのである。</p>



<p><em>結局、「適」と「不適」は、権力者や意思決定に関わる者の偏見や差別や利害関係による選別でしかない。この目的ゆえに19世紀以降の優生学は、社会的な格差・文壇による社会問題を、偏見・差別を動機に効率的かつ安易に解決したいという野心を実現する手段となった。この目的のため、生物進化と定量的な説明を使って偏見・差別に真理の仮装を施し、社会に強制し、人々を操り、これで人々を悩ませてきた問題が解決できると信じさせた。これこそが惨劇を招く元凶となった誤りである。</em></p>



<p>千葉 聡（2023）『ダーウィンの呪い』 講談社 （P. 277）</p>



<p>その性格上――たとえば過去にIQがそのように用いられたようにーー成人発達理論も、同時代の支配構造や利害関係を維持・強化するために用いられる危険性と隣り合わせに存在している。</p>



<p>とりわけ、巷の解説書にあるように、高次の発達段階が、人類の公共的な利益のために高い倫理観にもとづいて貢献できる能力に特徴づけられたものとして示されるとき、そうした高邁な精神をもつ人々の善意は、発達を善性に向けたプロセスとして単純化してとらえて、そうした発達のプロセスを歩むことを他者に強要する原理主義的な発想に囚われてしまいがちになる。</p>



<p>また、そこでは、そうした能力を習得しているとされる高次の発達段階に到達した人々を特権化する歪なエリート主義が蔓延することになる可能性もあるだろう（たとえば、こうした可能性は、自己を「Teal段階」に到達していると判断した人が他者に対して成長・発達をするように迫る光景に顕在化している）。</p>



<p>今日、人類社会は「Sustainable Development Goals」をはじめとする麗しい標語で仮装して推進される「Great Reset」の荒波に晒されているが、われわれが冷静に注視すべきは、そうした「改革」が、World Economic Forumに象徴される超富裕層を頂点にいだく今日の寡頭制の維持と強化に資するものとして設計・展開されているということである。</p>



<p>そして、そうした麗しい物語に共感して、その実現に貢献しようとする姿勢は、そのあまりの無防備性（naivete）ゆえに、よういにそうした体制の思惑に呑み込まれてしまうことになるのである。</p>



<p>人間の成長や発達というものが、社会価値観や世界観と紐づけられ、そこで「成功」や「勝利」の象徴として崇められている「像」と同一視されるとき、発達理論は、そうした像に向けて修練をするように個人の尻を叩く強圧的な装置に転じることになる。</p>



<p>そのとき発達理論は、そうした所与の目標に向けて少しでも効果的・効率的に前進するように個人を彫像していくための装置になるのである。</p>



<p>そして、そうした状況の性質に無意識であるとき、支援者は容易に同時代の支配構造を維持・強化に加担する者に堕してしまうのである。</p>



<p>人間の成長・発達とは、あらかじめ定められた目標に向けて前進していくプロセスではない。</p>



<p>また、個人が生きる時代や社会の中で、その構成員として求められる能力を従順に習得するだけのプロセスでもない。</p>



<p>人間の成長や発達がそのようなものとしてとらえられてしまった瞬間、そこに内在する創造性の芽は摘み取られてしまうことになるのである。</p>



<p>先日、発達心理学者のTheo Dawson博士が主宰するトレイニングに参加していた折、彼女が非常に興味深い発言をしていた。</p>



<p>われわれがLectica, Inc.でしようとしているのは、人間の発達というものを「目的論」（teleology）の呪縛から解き放つことである。</p>



<p>これは果たしてどういう意味だろうか?</p>



<p>「成人発達理論」に関心を寄せる人々は、しばしば、人間の成長・発達というものをなんらかの定められたゴールに向けて展開するプロセスとしてとらえがちである。</p>



<p>たとえば、「……段階に到達すると……ができるようになる」とか、「……段階に到達すると……という発想をするようになる」という風に、高次の発達段階にみずからの希望や期待や理想を投影して、人間の成長や発達というものをそこに向けて展開するプロセスとしてとらえるのである。</p>



<p>先述の「ティール・ムーヴメント」などは、そうした目的論に呪縛された発想の代表的な例といえるだろう。</p>



<p><em>生物学的な進化の意味は、遺伝する性質の世代を超えた変化である。生物進化は一定方向への変化を意味しない。目的も目標も、一切ないのだ。</em></p>



<p>千葉 聡（2023）『ダーウィンの呪い』 講談社 （P. 12）</p>



<p><em>自然選択は、動植物の育種のため人間が行う変異の選抜――人為選択がヒントになっている。だが人為選択と異なり、自然の作用には育種家が抱くような変化の目的や目標はない。ダーウィンにとって、どのような変異が生じるかはランダムであり、どのような性質が有利かは環境によって変わるので、進化は条件次第でどのような方向にも進みうるものだった。つまり進化には発展や進歩のような、あらかじめ定まった方向はない。退化も進化である。</em></p>



<p>千葉 聡（2023）『ダーウィンの呪い』 講談社 （P. 13）</p>



<p>これらは、チャールズ・ダーウィン（Charles Darwin）が、生物界の進化に関して述べたことをまとめた文章である。</p>



<p>われわれはしばしば「進化」を「進歩」や「発展」と混同してしまう。</p>



<p>往々にして、われわれは進化をするとは、「VUCA」とも形容される今日の人類社会に適応しながら、そこで地球規模で展開される経済競争の中で存在価値を発揮しつづけることだと解釈しているのである。</p>



<p>そして、そうした解釈の枠組の中で人間の「成長」や「発達」という概念もそうした適応に直接的に寄与するものとして意味づけされるのである。</p>



<p>われわれが発達理論に投影している「目的論」（teleology）とは即ちそうしたものである。</p>



<p>成長・発達とは、このVUCAと形容される社会の中で展開される経済競争で常に価値を生み出し勝者でありつづけることを可能とする条件である。成長・発達は、そうした可能性を最大化してくれるのである……</p>



<p>われわれ現代人を呪縛する目的論とは、こうした価値観にまとめることができるだろう。</p>



<p>成人発達論を扱う者として、われわれが留意すべきは、こうした価値観を無意識化したままで成長や発達という概念を扱うことの危険性である。</p>



<p>それは、非常に限定的な時代的・社会的な文脈の中で成立する基準にもとづいて人間の価値を測定して、垂直的に序列化する発想を鼓舞することになる。</p>



<p>そして、それはおのずと「望ましい」資質や能力を有している者を優遇し、「望ましくない」資質や能力を有している者を排除する態度を生み出すことになる。</p>



<p>いわゆる優生学的発想を正当化することになってしまうのである。</p>



<p>Theo Dawson博士が「人間の発達を目的論（teleology）の呪縛から解き放ちたい」と述べる背景には、このような問題意識があるのである。</p>



<p>限定的な時代的・社会的な文脈の中で信奉される大きな物語にもとづいて、そこで高く評価される資質や能力を恣意的に高次の発達段階の特性と位置付けて、人間の成長や発達そのものをそれらの特性を体得するためのプロセスとして見做すこと――</p>



<p>成人発達理論の関係者はこの陥穽に警戒する必要があるのである。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>何が発達をもたらすのか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 27 Dec 2023 14:25:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[発達心理学の研究者達によれば、いわゆる「発達段階」を直接に高めることはできないという。われわれにできるのは、小さな具体的なスキルの習得を地道に継続することだけである。即ち、みずからが置かれた環境におい...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>発達心理学の研究者達によれば、いわゆる「発達段階」を直接に高めることはできないという。<br>われわれにできるのは、小さな具体的なスキルの習得を地道に継続することだけである。<br>即ち、みずからが置かれた環境においてわれわれに突きつけられる課題や問題に向き合い、それらに対処していくために具体的なスキルを習得しつづけることが、結果として、発達心理学が言うところの「発達」をもたらすのである。<br>発達心理学の関係書を読んで、みずからがめざす発達段階の概要を理解することは、実は、あらたな「知識」（contents）を覚えることにはなるが、必ずしもそれを体得することにはならないのである。<br>これは発達という現象について考える際にわれわれがまず考慮すべきことである。<br>ただし、研究者達と会話をしていると、単にスキルを習得することが発達をもたらすものでもないようである。<br>たとえば、非常にたくさんのスキルを習得しているが、それらが統合されていないために、実際の課題や問題の解決に適用できないかたちで保持されているという場合には、あらたにスキルを習得するのではなく、あえてそうした勉強や訓練を止めて、己の中にあるスキルを整理するためのトレイニングをすることが有効になる。<br>端的に言えば、あえて学びを止めることが必要とされる場面もあるのである。<br>また、様々なスキルの中でも、「探求するためのスキル」と「統合するためのスキル」というような異なるカテゴリーのスキルが存在する。<br>たとえば、意思疎通において、われわれは他者と対話をして、あいての意図や想いや欲求に耳を澄ませ、そこに息づく真実や本質を探究・把握していくことになる。<br>しかし、複雑な人間関係の中で求められるのはそれだけでなく、そうした意志疎通を通して、把握された多様な視点を関係づけることにより、共通の理解や認識を醸成していくことも求められる。<br>即ち、ひろく意識を拡散して、そこに存在する多様な視点を認識・探求・理解する「外向的」なベクトルをもつスキルを活用するだけでなく、そのようにして得られた洞察を統合したり、関係づけたり、融合したりする「内向的」なベクトルのスキルを活用することが求められるのである。<br>そして、発達というものが、様々な要素をネットワーク状に繋げあらたな全体（whole）を構築する中に創発する現象であるとするならば、とりわけ後者のスキルが重要になるといえるだろう。<br>Lectica, Inc.の概念を用いるならば、「perspective seeking」や「perspective taking」にくわえて、「perspective coordination」のスキルが重要になるのである。<br>もちろん、これは言うまでもないことだが、統合ができるまえには、まず統合の対象となるスキルを十分に習得する必要がある。<br>その領域において必要となる具体的なスキルを幅ひろく習得したときに、はじめてそれらを統合することができるのである。<br>何も無いところに統合は起こりえないのである。<br>その意味では、重要なことは、みずからが今どの段階にいるのかを把握することであろう。<br>それを的確に見極めることが、学びを効果的に進めていくために必要になるのである。</p>



<p>そして、こうした文脈の中でもうひとつ重要になるのが、「身体性」の領域である。<br>今回、Integral Vision &amp; Practiceの主催で『「心」と「身体」のダイアローグ』という公開対談プログラムを小笠原 和葉さん・柏原 里美さんと開催したのだが、あらためて人間の成長や発達において「躰」の重要性を認識させられた。</p>



<p>現代思想家のケン・ウィルバーが指摘するように、現代人の人格形成において非常に深刻な課題となるのが、自我が確立する過程で「心」と「躰」が断絶する傾向にあるということである。<br>特に深刻なのが、肥大化した思考が、みずからが造りあげた妄想にとらわれ、現実と乖離した構想や夢や計画に呪縛されてしまうことである。<br>みずからが「合理的」「論理的」「科学的」な思考を駆使して造りあげた妄想を現実と錯覚してしまうのである。<br>結果として、みずからの正しさに対する揺るぎない確信に囚われた状態の中で生きることになってしまうのである。<br>思考とは怖いもので、後で振り返ると途轍もなく愚かな構想や計画でも、それを信奉する者はそれを完璧に合理的・論理的に正当化することができるのである。<br>実際、21世紀の人類社会は正にそのようにして造られた妄想の檻に恒常的に閉じ込められた状態にあるといえるだろう。<br>こうした状況において、われわれを現実にひきもどしてくれるのが身体性である。<br>それは実存的存在として生きることの揺るぎないリアリティにわれわれを回帰させてくれるのである。<br>たとえば、長年にわたり昇進をめざして全身全霊で業務活動に邁進してきた者があるとき不治の病に侵されていたことを告知されたとしよう。<br>そのとき、その人はそれまでにみずからを支えてくれた構想や夢や計画の呪縛から醒めて真の意味の現実に立ち返ることだろう。<br>たとえそれらの構想や夢や計画がどれほど合理的・論理的なものであろうとも、躰がもたらしてくれる真実の前には脆いものなのである。</p>



<p>人間の発達は、理想的には、具体領域に強靭にねづいた基盤のうえに抽象性を築きあげていくプロセスを採ることになる。<br>しかし、実際には、現代人は往々にして具体領域を十全に体験することなく、抽象領域に呑み込まれていくことになる（たとえば、それは、図鑑で動物の写真を眺めているだけで、実際にはそれらの動物を見たことも触ったこともない状態に喩えることができるだろう）。<br>それは、また、具体領域とのつながりを担保してくれる身体性そのものを軽視する態度を醸成して、われわれを視野狭窄させていく。<br>くわえて、こうした基盤を喪失した成長・発達は、たとえある程度のところまでは展開しえたとしても、最終的にはその可能性を開花させることなく途中で停滞することになるのである。</p>



<p>こうしたことを考慮すると、人間の成長・発達について考えるうえで、躰の重要性を念頭に置きつづけることは必須の責務であるといえるだろう。<br>確かに、身体性を伴わない思考は存在しえないが、同時に身体性という現実を軽視・否定する思考は存在する。<br>結果として、身体性がもたらしてくれる叡智に抗う抑圧的な思考形態に陥ることになるのである。<br>Lectica, Inc.の研究者達が指摘するように、人間の発達とは建築物を建てることに似ている。<br>基礎工事を疎かにして、いそいで階層を積み重ねていこうとしても、どこかで基盤の脆弱さがプロセスを止めることになる。<br>また、人間という生き物は、高次の発達段階に到達すると、どうしても己を支えてくれる基盤の存在を軽視しはじめるものである。<br>それゆえに、さらなる高みに昇ることばかりに夢中になり、降りることが求められるときにおいても、そのことに気づくことができず、発達のプロセスを疎外してしまう。<br>上昇するためには、下降することが必要になる。<br>それが人間の発達の鉄則である。<br>そして、また、現代人を呪縛する「下降を忌避する態度」は、われわれを蝕み、みずからが造りあげた妄想の檻の中に捕らえつづけている。</p>



<p>人間の発達には、「ひろげること」と「収束すること」、そして、「昇ること」と「降りること」が必要になるのだ。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>Lectica, Inc.の長期プログラムに参加して</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 10 Dec 2023 15:29:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[対人支援者向け講座・トレーニング]]></category>
		<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[現在、Lectica, Inc.の約1年間に及ぶ発達理論に関する長期プログラムを受講している。このプログラムはLectica, Inc.の関係者がHarvard Graduate School of ...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>現在、Lectica, Inc.の約1年間に及ぶ発達理論に関する長期プログラムを受講している。<br>このプログラムはLectica, Inc.の関係者がHarvard Graduate School of Educationの授業として提供していたものを一般向けに公開しているものだが、いわゆる「発達理論」といわれるものに関してその歴史的な発展を概観する非常に濃密なものとなっている。<br>参加者は、総じて非常にレベルが高く、半数程が博士号等の資格をもち、大学等の専門機関で教鞭をとる学識経験者であるために、議論も実に興味深い。<br>繰り返して議論の的となるのが、発達理論の誤用をいかに回避するかという倫理的な問いである。<br>もう少し具体的に言えば、発達理論が優生学的に用いられるのをいかに回避するかということだ。<br>一般的には、発達理論は、単純な段階理論として解釈され、それぞれの発達段階に関して「この段階に到達するとこうした社会的に期待される能力が発揮できるようになる」というようなかたちで同時代の中で期待される「能力像」が投影されることになる。<br>たとえば、いわゆる「Teal」段階に到達すると「あのようなこと」や「このようなこと」ができるようになり、それがその人に社会的な成功をもたらすことになるーーーーという物語がまことしやかに信じられることになるのである。<br>こうなると、必然的に高い発達段階に到達することを無条件に奨励する優生学的な物語が信奉されることになる。<br>たとえば「……大学を卒業すれば就職に有利になる」とか、「……資格を獲得すれば年収を上げることができる」というような功利的なものと同じような物語が発達理論に投影され消費されるようになるのである。<br>これは、少し専門的に言えば、「構造」と「内容」の混同があるがゆえに生じている誤解といえるのだが、これは長いあいだこの領域の勉強を積んできた人でも混乱しやすい高難易度の問題であるといえる。<br>しかし、こうした誤解について徹底的に検討することを怠ると、発達理論は容易に同時代の価値観に呪縛されたまま人間存在をその機能的な有用性にもとづいて評価する優生学的な理論に堕してしまうことになる。<br>このことを長年にわたり様々な現場において発達理論の可能性について真剣に探求してきた参加者が真剣に議論する対話空間に参加できることは実に深い幸福感をあたえてくれる。<br>こうした誤用は日本でひろく蔓延しているが、それは国内だけの問題ではなく、欧米でも深刻な問題として存在している。<br>その本質には、人間の価値というものを、その人が経済活動の中で生み出すことができる経済価値に還元する現代の倒錯した世界観があるのは明らかだろう。<br>「資格」や「学歴」と同じように、「発達」という概念が経済的な恩恵をもたらすものとして歪曲されて理解されているのである。<br>そこには、たとえば、発達するがゆえにできなくなることがあるということに対する認識も、また、発達するがゆえに背負うことになる重荷があることに対する認識存在しない。<br>そして、高度な発達段階が却って機能性や生産性を損なうことになる場合があるということに対する認識も欠如しているのである。<br>いうまでもなく、Lectica, Inc.だけでなく、この領域の優れた研究者達は、発達という概念を研究しながらも、それを人間存在に関する理解を深めるための無数に存在する要素の中のひとつに過ぎないことを明確に認識している。<br>そうした認識があるがゆえに、その概念に過剰な投影をするのを避けることができるのである。<br>こうした議論に参加していると、みずからの専門性を相対化することは専門家の倫理的責任であることをあらためて訓えられる気がする。</p>



<p>＊</p>



<p><a href="https://peatix.com/event/3780823?fbclid=IwAR1hEY0ts9LWsCqVzDcjtoUPvxFRsSXsex5EE0bNsrvQ2RJsoKJjZ-w0skk" target="_blank" rel="noreferrer noopener">​発達志向型コーチング トレーニング・プログラム 説明会<br>https://peatix.com/event/3780823?fbclid=IwAR1hEY0ts9LWsCqVzDcjtoUPvxFRsSXsex5EE0bNsrvQ2RJsoKJjZ-w0skk</a></p>



<p>来年、念願叶い、国際コーチング連盟の認定を得て、対人支援者を対象とした発達理論の専門的プログラムを日本で開催する運びとなった。<br>そして、このプログラムを奥野 雄貴さんと松下 琴乃さんという経験豊かなコーチと組んで開催できるのは非常に幸福なことである。<br>プログラムでは、参加者の方々に実際にLectica, Inc.の発達段階測定を受けていただき、その測定結果を踏まえて自身の成長や発達に関する探求や内省や実践にとりくんでいただくことになる。<br>発達理論を理解するためには、先ずは発達段階測定を受けて自己について深く理解することが必須となるが、ここではまずその基本を押さえて、人間の成長や発達を支援するための理論や方法を習得していくことになる。<br>日本でもこうした企画ははじめてものとなるが、そうした画期的なプログラムに相応しい内容のトレイニングを提供したいと思う。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>推薦：『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』 by 加藤 洋平</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 05 May 2023 02:38:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[加藤 洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』（日本能率協会マネジメントセンター） 成人発達理論を用いて同時代の社会・文明を批判的に考察し、そこに存在する課題や問題を克服していくための解を...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="111" height="160" src="https://integral.or.jp/wp-content/uploads/2023/05/B0C23WSDTL.01.SCLZZZZZZZ_SX500-1.jpg" alt="" class="wp-image-1279"/></figure>



<p>加藤 洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』（日本能率協会マネジメントセンター）</p>



<p></p>



<p>成人発達理論を用いて同時代の社会・文明を批判的に考察し、そこに存在する課題や問題を克服していくための解を提言する非常に野心的、且つ、先駆的な作品である。<br>ここ10年程のあいだに、日本でも成人発達理論がひろく注目を集めるようになっているが、基本的には、ビジネス領域における人材支援の方法論のひとつとして受け留められている。<br>しかし、この理論の視野は非常にひろく、その洞察は、そうした「実務」の領域だけでなく、「行政」や「教育」や「福祉」をはじめとするいわゆる「非営利」の領域に有効となるだけでなく、また、正にこの著書がそうであるように、「社会」や「文明」といった集合的な主題について検討するうえでも非常に大きな力を発揮する。<br>そして、加藤 洋平氏による本書は、そうした集合的な領域において、今日 人類が直面する課題や問題について正面から考察した本格的な書籍としては日本語では初めてのものとなる。<br>こうした意図にもとづいて、発達理論に精通した研究者・実践者によってまとめられた著書としては、例えば現代思想家のケン・ウィルバーや教育学者のザッカリー・スタインのそれが存在するが、ここ数年の社会情勢を勘案して、今 現在進行形で展開する変化について考察をしているという点においては、それらの中でも同時代の現実との関連性がひときわ高いものとなっているといえる。<br>「人新世」（Anthropocene）という言葉が注目を集めているように、今 巷では人類の「社会」や「文明」をメタ的な視野を通して批判的に眺めようという機運が高まりつつあるようだ（実際、日本でもその関連書がベストセラーになっていると聞いている）。<br>しかし、ここで注意すべきは、同時代の集合的な変化をとらえるうえで、自らがいかなる思想的なフレイムワークに立脚して思考をしているかということである。<br>往々にしてそうしたフレイムワークは無意識化されており、われわれをその呪縛の中で思考をすることになってしまうのである。<br>例えば、今日のそうした話題に関する議論においては、総じて今日の急速な情報通信技術（Information &amp; Communication Technology・ICT）の進化を所与の条件として――即ち、適応すべき条件として――とらえることになる。<br>そして、それをいかに効果的に統合しながら人類社会の「進化」を促していくかという単純な思考に陥っていくことになるのである。<br>端的に言えば、今日の社会が、人間の個人的・組織的な行動をシステムの管理下に置く――正に思想家のミッシェル・フーコーが警鐘を鳴らしたような――全方位型監視社会に向けて邁進していくことを前提とした発想だけが幅を効かせていくのである（その意味では、「中央銀行デジタル通貨」も、「社会信用システム」も、「スマート・シティ構想」も、発想の基本は同じものといえる）。<br>こうした発想はしばしば「そうした緻密な管理制度こそが、人類社会の持続可能性を実現するために必要となるのだ」という思考を拠所として自己正当化する傾向にあるが、実は、そうした発想が全体主義（totalitarianism）そのものであることには無自覚である（wikipediaによれば、「全体主義とは、個人の自由や社会集団の自律性を認めず、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制である」という）。<br>実際、いわゆる「エコロジー思想」は、個人を全体の部分として位置づけ、全体の生存のために個人の尊厳を積極的に制限すべきであるという全体主義的発想と非常に相性がいい。<br>現代思想家のケン・ウィルバーは、こうした発想を、「機能的適応」（functional fit）の価値が世界全体を支配することを奨励する発想と診断したが、例えば今日 巷を賑わしている「持続可能な開発目標」（the Sustainable Development Goals・SDGs）は、一歩間違えば、容易にこうした全体主義的発想の温床となりえることについては、ほとんど顧みられていない。<br>今日の資本主義社会は実質的に「監視型資本主義」（surveillance capitalism）社会と形容できる状況に陥っているが、消費者達は自身が監視と搾取の対象に貶められていることに対して健全な違和感を抱く感性と能力を半ば完全に剥奪されている。<br>また、こうした体制下において、個人は自己の「機能的存在」（「価値生産者」）としての有用性（「機能」「能力」「態度」）を高め、激化する競争の中で淘汰されないように常に「自己実現」という「プロジェクト」に積極的・献身的にとりくむことを覚えていくことになる。<br>そうした行動様式を奨励するのは、表面的には、資本主義の論理であり、持続可能性の論理であるが、そうした表面的な装いの核心に息づくのは、人間存在を全面的に可視化し、解析・評価し、意図的な操作の対象として位置づけるダイナミクスである。<br>こうしたダイナミクスを、例えばケン・ウィルバーが「フラットランド」のそれと、そして、ルドルフ・シュタイナーは「アーリマン」のそれと形容しているが、その本質はこの世界そのものを物化していこうとする飽くなき衝動にあるといえるだろう。<br>そして、人類の「社会」や「文明」をメタ的な視野を通して眺めようとする今日の議論は徹頭徹尾こうしたダイナミクスの呪縛下において営まれているのである。<br>換言すれば、自己の意識と存在を、そして、発想と思考を支え囚えているダイナミクスに無自覚のままにあまりにも無邪気に無防備に行われているのである。<br>しかし、ここで注意すべきは、同時代の集合的な変化をとらえるうえで、自らがいかなる思想的なフレイムワークに立脚して思考をしているかということである。<br>こうした議論に成人発達理論の洞察を持ち込むことの意義は、正にこうした無意識的な思想的コミットメントを意識化することを可能にするというところにあるといえるだろう。<br>成人発達理論は、われわれがこの時代の集合的な課題や問題について思考するうえで、そうした思考活動を営んでいる意識（意識構造・認知構造）そのものに目を向けて、そこに内在する特性や傾向とその課題や問題に対峙するように促してくれる。<br>そうした深い内省無しには（こうした類の内省をWilliam Torbertはtriple-loop learningと形容している）、結局は、われわれは自己を呪縛している思想の囚人として思考することしかできないのである。<br>そして、このように自己を呪縛された存在としてとらえ、そこに問題意識を維持しながら探求を深めていくことができる発達段階を後慣習的段階（post-conventional stage）というのである。<br>換言すれば、こうした内省が欠如したままでは、たとえ「改革」や「創造」や「変革」を意図したとしても、われわれの思考は、あたえられた慣性の法則に従うように、あるいは、かけられた催眠の誘導に従うように、自動反応的に展開していくことになるのである。<br>その意味では、真に精神の自由を獲得し思考するためには、発達理論の洞察が大きな価値をもたらしてくれるのである。</p>



<p>このたび出版された加藤 洋平さんの著作は、これまで主にビジネスの文脈で消費されてきた成人発達理論を「社会」や「文明」という集合的な文脈の課題や問題について考えるための概念的道具として大きく飛躍させてくれる画期的な作品といえる。<br>特に、これまでに発達理論に触れながらも、その価値をあくまでも人事領域の課題や問題に対処するための道具として位置づけてきた方法論として把握してきた方々にとっては、これまでの認識を刷新してくれる刺激的な洞察をあたえてくれるだろう。<br>本書がひとりでも多くの読者を獲得することを願ってやまない。</p>
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		<title>加藤 洋平さんの「文明学と成人発達理論」</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 10 Aug 2022 15:14:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[友人の加藤 洋平さんが、先日、Entrepreneur Factoryの主催で下記のイベントを開催した。 文明学と成人発達理論〜文明の治癒と変容に向けた成人発達理論の意義の再考〜https://www...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>友人の加藤 洋平さんが、先日、Entrepreneur Factoryの主催で下記のイベントを開催した。</p>



<p>文明学と成人発達理論<br>〜文明の治癒と変容に向けた成人発達理論の意義の再考〜<br><a href="https://www.enfac.co.jp/archive/projects/reading-group/" target="_blank" rel="noreferrer noopener">https://www.enfac.co.jp/archive/projects/reading-group/</a></p>



<p>非常に意義のあるイベントであるが、その録画動画が無料で視聴できるので、ここで紹介したいと思う。</p>



<p>今回のイベントでは、韓国系ドイツ人思想家のビョンチョル・ハン（Byung-Chul Han・BCH）の著作の内容に言及しながら、加藤さんが現在探求をしている現代文明の構造的な課題・問題に関する対話が行われている。<br>発達理論において「後慣習的段階」（post-conventional stages）といわれる段階に到達すると、人間はしばしば個としての自己の存在をより俯瞰的な視野からとらえ、それを同時代の集合的なダイナミクスの中に立ち上がるものとしてとらえるようになる。<br>個としての自己の存在に対して責任をとるためには、それをとりまき、また、それを貫く時代的・社会的な文脈に対して洞察を深めて、それと対話や対決をすることが必要となることを悟るのである。<br>そうした意味では、人間の成長・発達に関して探求を進めていくうえで、文明論的な視点にもとづいて思索を深めることは必須の作業となるといえるのである。<br>このイベントでは、加藤さんはBCHという現代思想家の思想をとりあげているが、その思想の核にある問題意識とは、「新自由主義」（neo-liberalism）といわれる思想が人類社会を席巻する中でもたらされた深刻な災禍――それはまぎれもなく人類の死に至る災禍と形容できよう――を指摘して、それを超克するための方途を探ることにある。<br>BCHの思想について眺めるときに、個人的にとりわけ感心するのは、「”can”の圧政」（the tyranny of can）とでも形容できる現代社会の病理を実に的確に浮き彫りにしていることである。<br>人間の存在を「should/should not」で縛ろうとしていた時代は終わり、「can」で呪縛しようとする時代が到来しているというその指摘の重要性は強調してもしきれないものである。<br>今日、資本主義社会に生きる者達は、日常生活を通じて自己の可能性を発見して、それを開発・実現するように鼓舞されつづけることになる。<br>われわれは生涯を通じて学びつづけ、生涯を通じて自己実現をし、そして、生涯を通じて価値を生み出しつづけるように鼓舞されつづけるのである。<br>こうしたメッセージに半ば恒常的に晒されることにより、われわれはいつの間にか自己の存在を開発の対象としてとらえ、その機能性を高めるために果てしない努力をするように導かれていくことになるのである。<br>そこでは、自己に潜在する可能性を探求し、実現していくために、自己そのものを資源として見做して、それを開発・搾取しつづけることを善しとする態度を習得するように訓練されることになる。<br>人間の成長や発達について探求をする発達理論（また、人間性心理学やポジティヴ心理学やトランスパーソナル心理学もそれに加えることができるだろう）は、こうした時代的・社会的な文脈の中では、容易にこうした成長主義的・発達主義的な態度を補強・増幅するものと化してしまう危険性を秘めている。<br>とりわけ、「can」を核とするメッセージの危険性とは、それが限界をもたないことにある。<br>人間の可能性は無限であり、あなたは諦めることなくそれを実現するために果てしなく努力をしつづける必要があるのである（そして、それはまたそのまま社会への貢献をすることになるのである）――こうしたメッセージの呪縛のもと、現代人は成長・発達に対する脅迫的な衝動にとらわれて生きることになるのである（たとえば、Angela Duckworthが提唱した「grit」の概念はこうした文脈でとらえることができるだろう）。<br>結局のところ、現代社会において成熟して在るとは、刻々と変化する社会の中で自己の能力を開発しつづけ、価値創造者としての機能性と有用性を高めつづける主体的・自律的な存在であることなのである。<br>そして、そこでは、そのような機能性をこえた視点を通して自己の存在をとらえようとする感性や価値観や態度は支持を得ようがないのである。<br>たとえば、こうした文脈においては、精神的・肉体的な障害は、そうした高い機能性を発揮するための障害物として見做されることになる。<br>また、そうした「障害物」を克服しようとしないことは「怠惰」や「病気」であり、それは批判や非難や治療や排除の対象としてみなされるのである。<br>これはある意味では「ソフトな優生主義」と形容できるものである。<br>今回の加藤さんのイベントの意義とは、正にこうした現代の病理に光を当てるところにあるといえるだろう。<br>即ち、発達理論をはじめとして、人間の成長・発達に関心を寄せる者が知らず知らずのうちに絡めとられことになる集合的なダイナミクスに目を向け、それを超克するための方途を探るためのきっかけをもたしてくれるのである。<br>実際、こうした文明論的な視点は、純粋に発達心理学に触れているだけではなかなか獲得されないものである。<br>そのためには、どうしてもこうした集合領域の深層構造に目の向ける学問（例：社会学）の叡智に触れる必要があるのである。<br>事実、ここ20年程のあいだに成人発達理論はひろく受容されるようになったが、往々にして、それは正にBCHが指摘するような成長至上主義的・発達至上主義的な発想の枠組の中で理解されている。<br>後慣習的段階の重要性を謳いながらも、実際には、自己の存在を呪縛する価値観や世界観（pre-analytic vision）に囚われたままこの理論を運用しているのである（その意味では、その運用の在り方は慣習的段階のそれということができるだろう）。<br>端的に言えば、少し間違うと、成長や発達の価値を謳う成人発達理論は――とりわけ今日の時代的・社会的な文脈の中では――人間存在の搾取に加担するものになってしまうのである。<br>こうしたことを鑑みても、発達理論を学ぶ者が、その隣接領域に注意を向けて、発達理論に内在する限界や盲点を照明してくれる洞察に触れることは非常に大きな価値をもつのである。</p>
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		<title>「明晰性・明確性」と発達段階</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 13 May 2022 14:44:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
		<category><![CDATA[明晰性明確性]]></category>
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					<description><![CDATA[一般的に、「成人発達理論」について理解をする際、個人の認知構造の発達段階に注意が向きやすいが、実は、人間の成長・発達について考察していくうえで、その他にも重要な要因があることはあまり認識されていない。...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p>一般的に、「成人発達理論」について理解をする際、個人の認知構造の発達段階に注意が向きやすいが、実は、人間の成長・発達について考察していくうえで、その他にも重要な要因があることはあまり認識されていない。<br>即ち、認知構造の発達段階を高めることが最も重要であると――あるいは、そもそも認知構造の発達段階を直接的に高めることが可能であると――錯覚されているのである。<br>しかし、認知構造の発達とは、個人の精神生活を支える他の様々な要因が熟したところに結果として生じる現象であり、また、「発達段階」とは、それを測定したものに過ぎない。<br>認知構造が他の心理的な要因とどのような関係にあるのかを問うことなしに、それだけを独立したものとしてとりあげて、その価値を過剰に見積もることは、人間の成長や発達理論に関して大きな誤解をもたらすことになるのである。<br>その意味では、われわれが心懸けるべきは、認知構造の発達段階に目を向けるだけではなく、それに影響をあたえる他の要因に目を向けることであるといえる。<br>そして、それらの要因がどのように発達段階に関係しているのかを見極めて、必要に応じて、それらの探求や鍛錬にとりくむことなのである。<br>Lectica, Inc.の研究者達は、こうしたより包含的な観点から人間の発達に関する研究に従事している（また、そうした発想にもとづいて、段階測定法の開発に従事すると共にそれに立脚した対人支援の方法論を提唱している）。<br>こうした発想は、発達理論を参考にして、支援活動にとりくんでいこうとする実践者には、非常に参考になるところが多いと思うので、ここでは、Lectica, Inc.の発達段階測定において、認知構造の複雑性と並んで、重要な要素として位置づけられる「明晰性・明確性」（clarity）について簡単に紹介したいと思う</p>



<p>Lectica, Inc.の創設者であるTheo Dawsonによれば、もともとLectica, Inc.として「明晰性・明確性」に着目しはじめたのは、この領域のスキルがわれわれの実務領域におけるパフォーマンスに大きな影響をあたえるという素朴な理由のためという。<br>効果的・効率的に意思疎通ができることは、われわれが実務の領域において他者と共同作業をしていくうえで必須の条件となることはいうまでもない。<br>たとえば、非常に優秀な思考力や洞察力を備えているにもかかわらず、そうした能力を発揮してまとめあげたアイデアを他者が理解できるように伝達することができなければ、それはひろい共感を得ることができずに、埋もれてしまうことになるだろう。<br>実際、こうした事例は無数に存在する。<br>優秀な研究者が、利害関係者に対して――特にその専門領域に関してそれほど深い知識をもたない関係者に対して――みずからの調査・研究に関して説明することに苦心している光景は、頻繁に目にするものである。<br>質的に優れた思考や探求ができることにくわえて、それを他者に対して効果的・効率的に表現できることが重要になるのである。<br>しかし、継続的な調査・研究を進める中でLectica, Inc.の関係者は、「明晰性・明確性」が個人の長期的な成長・発達に影響をあたえることに気づくことになる。<br>即ち、「明晰性・明確性」のスコアが、われわれの学びの質に影響をあたえることが、そして、その結果として、われわれの生涯にわたる成長・発達の軌道に影響をあたえることが認識されたのである。<br>曰く：</p>



<p>高い「明晰性・明確性」のスコアは、現在、その人の中に存在する多様な能力（スキル）が高い質をもって互いに結びついていることを意味する。そして、それは、さらなる成長・発達のための堅固な基盤となり、より高次の認知構造が創発するための支えとなる。</p>



<p>こうした洞察から導きだされるのは、「明晰性・明確性」を高めるための具体的な実践にとりくむことが、認知構造の発達段階を高めるために大きな意味をもつことになるということである。<br>ある意味では、こうした実践は「頭の中を整理する実践」と形容することができるだろう。<br>それは、たとえばある概念や話題や課題や問題に関するみずからの理解についてあらためて再検討するということである。</p>



<p>「果たしてわたしはそれについて真に理解しているのか……?」<br>「もしかしたらわたしはそれについて理解していると思い込んでいたに過ぎないのではないか……?」<br>「この課題・問題について検討するために必要とされる知識をわたしは真に持っているのか?」</p>



<p>こんな問いをみずからに衝きつけながら、あらためて自己の中にある「情報」や「アイデア」や「理解」を精査するのである。<br>そうした作業を通じて、もしかしたら重要な知識が欠けていることに気づくかもしれない。あるいは、みずからの理解が断片的・表層的であることに気づくかもしれない。<br>そうした作業を通じて、もしかしたらみずからの主張が矛盾を孕んでいることに気づくかもしれない。その主張を支えるひとつひとつの要素は妥当なものであるが、それらが融合されたときに微妙な論理的な破綻を来していることに気づくのである。<br>そして、こうした整理をすることが、さらなる学びに向けてわれわれを後押しすることになるのである。</p>



<p>尚、Lectica, Inc.では「明晰性・明確性」を下記の4つの要素に整理している。</p>



<p>論理的一貫性（logical coherence）：これは、主張を展開するさいに、それが論理的に整合性のあるものとなるように留意をしながら言葉を紡いでいく能力である。たとえば、論理的に飛躍や矛盾があれば、それを認識して、そこに必要な修正をくわえていく能力がそれにあたるだろう。あるいは、自己の主張を支える複数の概念を緊密に絡め合わせる能力も重要になるだろう。複数の思想家や理論家の概念を組み合わせて物語を構築しているときに、世界に存在するあまたの概念の中でそれらの概念を選択した論理的根拠はどのようなものなのか? また、そのようにして選択された概念は互いに有機的に関連付けられているのか? また、その意思疎通行為において、真に要となることを見極めて、無駄な言葉を排して、それを効率的に語ることも、この領域の重要な能力（スキル）のひとつといえるだろう。その物語を語るときに真に必要なことは何であり、また、そうでないことは何であるのかを見極めることは、その意思疎通行為の質に影響することになる。</p>



<p>明瞭な意思疎通（clear communication）：いうまでもなく、意思疎通とは他者に向けた行為であり、それは他者に対する慮りに支えられたものである必要がある。換言すれば、それは、「言いたいことを言いたいように言うこと」ではなく、あいての感性や関心や状態や能力を考慮して、あいてが受け留めることができるように言葉を意図的に紡いでいくということだ。そのためには、難解な専門用語を排したり、重要概念を定義したり、あるいは、過剰な反復を避けたり、必要な反復を用いたりすることが必要になるだろう。また、概念的な説明と物語的な逸話を適切に交えることも求められるだろう。</p>



<p>説得性（persuasiveness）：みずからの主張を説得力のあるものとするために、われわれは、みずからがそのように発想・思考する根拠を示すことを求められる。それは、自己の体験の中で獲得された真実を示すことであるかもしれないし、また、関連する調査や研究を引用することかもしれない。いずれにしても、意思疎通行為において、われわれは単に言いたいことを言いたいように言うだけでなく、それを支える証拠や根拠を示すことを求められるのである。<br>また、そのときに、われわれはまたみずからが紹介する情報を精査して、真に信頼にあたいするものを見極めて示すように求められることになる。いうまでもなく、「情報」とは、本質的に、人間が意図的に事実を加工したものである。その意味では、あらゆる情報とは恣意的であり、断片的であり、歪曲的なものなのである。主張の説得性とは、こうしたことを認識したうえで、発話者がいかに自己の証拠や根拠を的確に活用できるかに依存することになる。</p>



<p>フレイミング（framing）：これは、みずからの主張を支えている思想的・理論的な立場や枠組について意識的になり、また、それをあいてに明確に示すことである。ひとつひとつの概念を明確に定義するだけでなく、それらの概念を用いて展開されている物語そのものがどのような思想的・理論的な立場や枠組に立脚しているのかを示すのである。<br>また、ひとつの意思疎通行為の中でわれわれはしばしば異なる思想的・理論的な立場や枠組の間を行き来することになる。たとえば、人間の心について議論をしていても、発達理論の枠組をとおして語るだけでなく、深層心理学の枠組をとおして語ることあるだろう。そうしたときに求められるのは、枠組間の移動を無意識的にするのではなく、それを意識的にすることであり、また、そのことをあいてが認識できるように配慮することである。また、ひとつの枠組に立脚して主張をしているときには、その枠組に自己の視点をしっかりとコミットさせることが重要になる。いかなる枠組に立脚して表現をしているのかということがあいまいであると、あいては混乱を来してしまうことになるのである。</p>



<p>このように眺めてみると、「明晰性・明確性」（clarity）という言葉でLectica, Inc.が意味しているのが、それほど特殊なことではないことが推察されるだろう。<br>ある意味では、一般的な「コミュニケーション・トレイニング」で言及されていることと同じようなことにも思えるだろう。<br>ただし、ここでひとつ留意しておくべきことがある。<br>それは、人間が成長・発達して認知構造が複雑化していくと、この「明晰性・明確性」を高めていくことがいっそう重要になるということであり、また、いっそう困難になるということだ。<br>とりわけ、現代の流動化する社会状況の中で、高い難易度の課題や問題に対処するために、日々あらたな能力を習得して実践することを求められているような第一線で活躍するプロフェッショナル達にとっては、これは決して容易なことではないだろう。<br>次々とあらたな能力（スキル）を開発することを求められる状態において、それらの能力（スキル）は往々にして自己の中で緊密に結び合わされることなく断片化したままになりがちである。<br>膨大に収集された知識や洞察や能力が、却って自己のパフォーマンスを下げることになる可能性さえあるのである。<br>また、日々、グローバルな文脈で仕事をする者にとり、第一言語ではなく、第二言語で自己表現するときに果たしてどれくらい「明晰性・明確性」を維持した表現ができるかということは非常に重要な問題となる。これが決して容易に克服できるものでないことは明らかだろう。<br>端的に言えば、重要なことは、単純にコミュニケーション関連のスキルを習得することではなく、それぞれの文脈で必要とされる多様な能力（スキル）を現在進行形で習得しながら、その実践において、こうした「明晰性・明確性」に関する能力（スキル）を適用していくことなのである。<br>そうした意味では、Lectica, Inc.の関係者が指摘するように、「明晰性・明確性」に関する能力（スキル）とは、自己の独自の文脈を踏まえながら、生涯に渡って意識的に開発されるべきものなのである。</p>



<p>尚、Lectica, Inc.の発達段階測定は、下記の組織を通して受験することができる。非常に有益な洞察が得られるので、御興味のある方は是非御検討いただきたい。</p>



<p>一般社団法人Integral Vision ＆ Practice（IVAP）<br><a href="https://integral.or.jp/" target="_blank" rel="noreferrer noopener">https://integral.or.jp/</a></p>



<p>参考資料：Theo Dawson (2021). Clarity Skills Unpacked.&nbsp;<a href="https://theo-dawson.medium.com/clarity-unpacked-a7dd42461440" target="_blank" rel="noreferrer noopener">https://theo-dawson.medium.com/clarity-unpacked-a7dd42461440</a></p>
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		<title>映画「ソロモンの偽証」は最高の発達理論の教材</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 15 May 2022 11:32:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[出典元：松竹株式会社https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04827/]]></description>
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<p></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full is-resized"><img fetchpriority="high" decoding="async" src="https://integral.or.jp/wp-content/uploads/2022/05/ソロモンの偽証.jpg" alt="" class="wp-image-925" width="354" height="500" srcset="https://integral.or.jp/wp-content/uploads/2022/05/ソロモンの偽証.jpg 707w, https://integral.or.jp/wp-content/uploads/2022/05/ソロモンの偽証-212x300.jpg 212w" sizes="(max-width: 354px) 100vw, 354px" /></figure></div>



<p class="has-text-align-center has-small-font-size">画像出典（松竹株式会社）：<a href="https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04827/"></a><a href="https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04827/" target="_blank" rel="noreferrer noopener">ソロモンの偽証　前篇・事件 (shochiku.co.jp)</a></p>



<div style="height:20px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p>2015年に劇場上映された作品である。<br>遅ればせながら、DVDで鑑賞した。<br>前篇と後編を合わせると4時間をこえる作品となるのだが、一気に鑑賞してしまった。<br>残念ながら、素晴らしい前編とくらべると、後編は、間延びした構成と大仰な演技に足をすくわれて、作品として格段に落ちてしまうのだが、藤野 涼子や板垣 瑞生をはじめとする主演俳優達の優れた演技もあり、難しいことを言わなければ、素晴らしい時間を満喫することができるだろう。</p>



<p>個人的に観賞しながら思ったのは、「この作品は発達理論の教材として最高のものなのではないか」ということである。<br>具体的に言えば、「順応型段階」（Robert Keganのthird order）の呪縛をこえて、個人としての自律的な思考能力を獲得する「自己主導型段階」（Robert Keganのfourth order）を確立していく熾烈な葛藤がいかなるものであるのかということが、この作品の主人公の姿に実に見事に描かれているのである。<br>即ち、権威的存在によりあたえられた情報を無批判に受容して、それが「事実」であると、「真実」であると納得するのではなく、みずからの責任にもとづいて調査をして、真実に辿り着こうとする主人公達の思考と行動の中には、自己主導型段階という発達段階の尊厳が端的にあらわれているのである。<br>現代思想家のケン・ウィルバー（Ken Wilber）は、この発達段階を「夢をみることができる段階」と形容しているが、その言葉に籠められているのは、この発達段階がわれわれに自己の内に秘められている変革を生み出す能力に目覚めさせるということであり、それを発揮して世界に果敢に働きかけていくことを可能とするということである。<br>ある意味では、この作品の中で主人公達が協力して実践しているのは、巷で「探求学習」といわれる活動であるといえるが、彼等の活動が示唆するように、真の探求学習とは、正に現実世界そのものを大きく変えることになる。<br>それは真に批判的に問うことをとおして世界を規定する権威構造や支配構造を揺るがし、そうしたものを刷新する可能性を秘めているのである。<br>実際、作品には、こうした深い問いをはじめた主人公達を周囲の大人達が暴力を奮うことで妨害をしようとする光景がくりかえし登場するが、自己主導型段階に立脚して生きるとは正にそうしたリスクを引き受けることを意味するのである。<br>その意味では、探求学習とは、「従来の知識偏重型の勉強とは異なるあらたな能力開発の方法」というような単純なものではなく、本質的に社会的な意味と意義を内包する実践法といえるのである。<br>たとえば、ある教師は、主人公に対して、伝統的な学校行事である卒業文章の執筆に取り掛かるように主人公に強要をするが、それに対して、彼女はそうした活動が本質的に期待される綺麗言を並べたてた空虚な文章をとりまとめるだけの無意味な作業であることを訴えて反発をする。<br>こうした行動の中には、自己の内的な感覚に忠実（authentic）であることを最重要視して、たとえそれが権威的存在の指示や命令であるとしても、外部からの理不尽な介入に対しては決然と抵抗する意志を示す自己主導型段階の尊厳が端的に描かれているといえる。<br>特に文章の執筆とは、その個人の最も本質的な精神的活動に関わるものであり、その内容について他者が介入してくるのは、自己主導型段階（以降）に立脚した者にとっては、容認しがたい侵害行為と見做されることになる。<br>主人公は、そうした行為に対して違和感を覚え、その感覚を率直に表現するのである。<br>自己の内に生じた世界に対する違和感を誤魔化すことなく、それに声をあたえて表現をしていくこと――自己主導型段階の尊厳とは正にここにあるのである。<br>逆に言えば、少なくてもこの作品を眺める限りでは、現代の学校環境が、往々にして、自己主導型段階に向けて子供達が発達していくのを阻害する機能を果たしてしまう可能性が大いにあるということだ。<br>即ち、そうした発達の芽を摘み、子供達が順応型段階に留まりつづけるように条件付けしてしまうのである。<br>たとえば、非常に印象的な場面のひとつに、突然に校長が辞任したことを伝えられて動揺する生徒達の姿を見て、「校歌を斉唱して気持ちを入れ替えましょう」と壇上から教頭から生徒達に告げるというものがある。<br>当然のことながら、健全な感覚の持ち主であれば、組織長が突然に辞任すれば、その理由はどのようなものであるのかについて疑問を抱くであろうし、また、組織の責任者に対して説明を求めるだろう。<br>しかし、ここでは、歌を歌うという行為を気を紛らわせるための道具として用いることを通して、教師達は思考を停止させることを子供達に強要するのである。<br>そして、そのことを通して、そもそも問いを抱き、それについて考えることそのものを間接的に思い留まらせるのである。<br>自己主導型段階の特徴のひとつが、みずから問いを立て、それにもとづいて探求をしつづける知的持久力を発揮することであるとすれば、こうした「指導」は正にそれを妨害することであるといえるだろう。</p>



<p>また、この作品の中では、人間の発達において「勇気」が非常に重要な役割を果たすことが明確に示されていることも銘記されるべきであろう。<br>前編の後半、主人公は、同級生が「不審死」したことに関して大人達が説明責任を果たそうとしないことに憤り、みずからの責任において真相解明の活動を展開していくことを決意するわけだが、そこで大きな役割を果たしたのが、不審死した同級生が遺した批判の言葉である。<br>即ち、普段は大人達に期待される役割を果たしながら優等生として振舞っている自身の偽善性を指摘する辛辣な言葉を受け留めて、そこに息づく凶暴な真実の刃を自己に向けて苦悶することができたことが、最終的に世界に対して果敢に働きかけていくという責任を発揮する勇気を喚起することを可能としたのである。<br>換言すれば、自己の内に存在する矛盾を隠蔽することなく、それを事実として受け留めて、それを己の責任において解決することを決意するところに、この主人公の人格的な成長が生まれるのである。<br>自己主導型段階の意識にもとづいて行動を興すことが、周囲の関係者の反発を招くであろうことは、主人公は百も承知していることだろう。<br>しかし、彼女の中には、そうした外部の関係者による反発や弾圧にもたらされるものよりも耐え難い「痛み」があるのである。<br>それは、自己の人格の中に大きな矛盾を抱えたまま偽善者として生きることである。<br>彼女にとり、そうした生は生きるに価しない生なのである。<br>その意味では、そうした内的な葛藤を経験して、それに真摯に苦悩できることそのものが途轍もない能力であるといえるのである。</p>



<p>ここで非常に重要なことは、この作品に丁寧に描写されているように、こうしたあらたな意識を涵養するためには、周囲の関係者の支援が重要になるということである。<br>たとえば、この作品には、主人公達の自律的な探求を妨害しようとする大人達が数多く登場するが――その中には、たとえば小日向 文世が演じる教師や田畑 智子が演じる警官をはじめとして「善意」にもとづいた者達も含まれる――いっぽうでは、松重 豊が演じる教師等、少数の支援者が登場して、主人公達の中にめばえはじめた自己主導型段階の意識が、権威や制度に蹂躙されることなく、健やかに育つことができるように様々な支援を提供する（こうした姿勢こそが、真の発達志向型支援を特徴づけるものといえるだろう）。<br>自己主導型段階の意識は、本質的に、あたえられた「真実」を無条件に受容することを拒絶して、全てをみずからの精神にもとづいて再検証をする意識である。<br>そして、それゆえに、既存の権威や規範や構造や制度と対峙して、それらの妥当性や正当性に問いを投げかけるものである。<br>換言すれば、それは世界や社会に流動性をもたらす意識といえるのである。<br>しかし、それゆえに――正に人類史を通じて今日に至るまで繰り返されてきたように――そうした意識は弾圧や排斥の対象とされることになる。<br>また、われわれは人格形成の過程を通じて、そうした弾圧や排斥の存在を社会の所与の条件と受け容れて、それと共存することを大人の知恵としてとらえるように条件付けされてしまうことになる。<br>この作品においては、主人公達の果敢な態度に触発されて、長年にわたりそのように条件付けされてきた結果としてみずからがしらずしらずのあいだに自己主導型段階の意識を抑圧する役割を果たしていたことに気づいた少数の大人達が、彼等に支援の手を差しのべるが、そうした支援は、主人公達の発達論的な挑戦が実を結ぶためには、必須の条件となるのである。<br>また、こうした世代間のダイナミクスを眺めるときにあらためて気づかされるのは、既存の社会に過剰適応した大人達を救済するのが、ときとして、そこに適応することを拒絶する次世代の若者であるということである。<br>そうした「不適応者達」を適応に向けて強制的に「指導」「矯正」してことは可能かもしれないが、そうした「善意」の行動をとおして、大人達はみずからを救済する術を放棄してしまうことになるのである。<br>この作品が優れているところは、それが主人公達の発達の物語であるだけでなく、彼等を支援する大人達の救済の物語でもあるということである。<br>前編では、藤野 涼子が演じる主人公が学校や警察の方針に違和感を抱き、そうした問題意識にもとづいて行動を興そうとすると、母親（夏川 結衣）が、「そうしたことをすると教師達に目をつけられて内申書に不利なことを書かれることになるので、止めたほうがいい」と警告を発するする場面がある。<br>こうした言葉を聞くと、子供達は、内申書を人質にとられて、口を封じられている囚人に近い状態に置かれているといえるのではないかとさえ思われるのだが、母親は、物語の後半、こうした言葉が――たとえそれが愛にもとづいたものであるとしても――娘をひとりの人格的存在として尊重するまなざしを欠いたところに生まれたものであることを自覚して態度をあらためることになる。<br>そうした適応を強いる言葉が実質的に娘を「牢獄」に閉じ込めることになることに気づくのである。<br>そうした自覚は正に彼女自身の救済となるのである。</p>



<p>ところで、ひとつ面白いのは、西村 成忠が演じる準主人公が、物語のクライマックスを飾る裁判が終わると、瞬く間に気持ちを切り替えて受験勉強に向けて邁進していくことだ。<br>ある意味では、この人物はこの作品の中で最も優秀な頭脳をもつ人物として登場するが、残念ながら、その「優秀さ」には、自身が牢獄に囚われていることを自覚して、そこから自由になるための思考をしようとする発想は欠けているようである。<br>ある意味では、この作品に登場する人物達の中でも最も残念な人物といえるかもしれない。<br>このあたりに作品に籠められた辛辣な批判精神を認めることができるのである。</p>



<p>また、もうひとつ印象的なのは、作品を通して、生徒達があまりにも頻繁に教師達に御辞儀をさせられることだ。<br>作品中の描写がどれほど現実を反映しているのかは判らないが、その頻度は異様なほどである。<br>そうした仕草は途轍もなく空虚なものであり、その光景には、正にフーコーが指摘したように、権威に対して身体的レベルにおいて自動化された従順性の痕跡を見るような気がする。</p>



<p></p>
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		<title>告知：一瞬一生の会主催・第5期リーダーシップスキル育成プログラム</title>
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		<dc:creator><![CDATA[integral]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 21 Apr 2022 14:40:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[各種講座・ワークショップ]]></category>
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					<description><![CDATA[Lectica, Inc.が開発した最新鋭の発達段階測定（LDMA・Leadership Decision Making Assessment）を本格的に活用した日本初の本格的なリーダーシップ・スキル...]]></description>
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<p></p>



<p class="has-small-font-size">Lectica, Inc.が開発した最新鋭の発達段階測定（LDMA・Leadership Decision Making Assessment）を本格的に活用した日本初の本格的なリーダーシップ・スキル育成プログラムが、6月に開講されます。<br>このプログラムは、有馬 充美さんが主宰する「一瞬一生の会」のプログラムとして開催されるもので、わたし（鈴木 規夫）もインストラクターのひとりとして参加します。<br>本プログラムでは、参加者の方々にLDMAを受験していただき、御自身の発達段階と成長・発達上の課題を把握していただいたうえで、Lectica, Inc.が開発した諸々のテクノロジーを用いて、さらなる成長・発達を実現していくための実践にとりくんでいただくことになります。また、このとりくみを支援するために、プログラムでは、個人コンサルティングや集合トレイニングをはじめとして、諸々の支援が提供されることになります。<br>Lectica, Inc.の測定を全面的に活用したトレイニング・プログラムは、日本では初めて実施されることになりますので、是非奮って御参加いただければと思います。<br>詳細については、下記のURLを御覧ください：<a rel="noreferrer noopener" href="https://www.lifelonglearner.biz/" target="_blank">https://www.lifelonglearner.biz/</a></p>



<p></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-full"><img decoding="async" src="https://integral.or.jp/wp-content/uploads/2022/04/lifelonglearner_image.webp" alt="" class="wp-image-903"/></figure></div>
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