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インテグラル理論

インテグラル理論(Integral Theory)とは、アメリカ合衆国の現代思想家であるケン・ウィルバー(Ken Wilber, 1949~)により提唱された統合理論です。ウィルバーは、人類が確立してきた多様な探求活動(discipline)(例:心理学・哲学・生物学・物理学・社会学・倫理学・言語学・経済学・環境学)が断片化して存在していることに憂慮し、それらの探求活動それぞれが真実を含んでいることを示しました。そして、それらの真実を相互に関連付けるための統合理論(meta-theory)を構築したのです。医学、哲学、社会学、心理学等々……これらの探究活動は全て「正しい」が「部分的」であり、これらの部分的な真実を統合するための方法を明らかにしようとしたのです。
インテグラル理論は、こうした問題意識にもとづいて、ウィルバーが長年の探求の末に1995年に『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution)の中で発表したものです。その後、ウィルバーをはじめとする数多くの研究者や実践者により修正が加えられながら、インテグラル理論は今日に至るまで精緻化されてきています。また、その実用的な価値も幅ひろく認識されており、個人や組織、共同体を対象とした支援において活用されています。

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成人発達理論

近年、心理学の領域では、人間の成長や発達の理解に関して大きな変化がありました。かつては、人間の成長や発達は基本的に成人する頃に完了し、その後はそこに存在する「器」に新しい知識やスキルや体験を蓄積していくようなものだと考えられていました。しかし近年、「生涯発達」という言葉を耳にすることも多くなり、「人間は成人期を迎えても深い質的な変化を遂げられる」ということが半ば常識として捉えられるようになっています。また、実際に非常に多くの人々が、成人期を迎えても自己の成長や発達を推し進めていくために不断の努力に励んでいます。

こうした時代的な文脈の中で今広く注目を集めているのが、いわゆる「成人発達理論」といわれる理論です。日本でも、1980年頃からケン・ウィルバーの著作の翻訳書を通して徐々にこの領域の知識が一般向けに紹介されてきました。そして、この10年程のあいだにロバート・キーガン(Robert Kegan, Harvard Graduate School of Education)の著書をはじめとする関連書籍が数多く翻訳・紹介されるようになり、急速にこの理論に対する関心が高まっています。実際「成人発達理論」には多種多様な学派や流派や含まれますが、それらに共通している発想としては、次のポイントを挙げることができます。

  • 人間は生涯を通じて深い成長・発達することができる
    成人期を迎えても、必要な条件(「支援と挑戦」)が整えば、私たちは深い成長や発達をし続けることができる。そこでは、単に新たな知識やスキルや体験を得るということに留まらず、いわば人間としての「視座」や「器」や「人格」そのものが大きく変容するようなことも可能となる。

  • 人間の成長や発達は常に周囲の生存環境との「対話」の中で実現していく
    人間は自分の生きる生存環境が突き付ける課題や問題を前にして、その対処のために自己を変化・変容させていく。また、そうした変化や変容の実現のためには、ふさわしい支援が必要とされることになる。例えば、子どもが自転車に乗れるようになるためには先ず補助輪の助けを借りる必要があるように、より高い発達段階に到達するためには、それに適した他者の支援が必要となるのである。

必然的に、子ども時代の発達に見られるのと同様に、成人期においても私たちは他者との関係性の中で自己を成長・発達させていくことになります。とりわけ、これから自身が向かおうとしている発達段階に関して――また、そこに到達するまでのプロセスに関して――知識や洞察を有する優れた支援者との共同作業は非常に大きな価値をもたらしてくれます。そうした意味で、私たちが発達を考えた際には、単に個人の資質、特性や能力だけでなく、その個人をとりまく文脈(例:時代的・社会的・組織的な環境)に目を向けて、そこに必要な条件が整っているかどうかを慎重に検討する必要があるのです。

しかし残念ながら、発達心理学者達が指摘するように、私たちの社会には成人に対して適切な支援を提供できる「インフラ」が必ずしも十分に整ってはいるとはいえません。とりわけ、「後慣習的段階」(post-conventional stages)といわれる高次の発達段階に向けて成長・発達しようとする時には、そうしたインフラは実質的にほとんど存在してないと言えるでしょう。その結果、こうした高次の発達段階に歩みを始めた人達は、しばしば深い孤独感や疎外感を味わうことになるのです。

また、こうしたプロセスにおいては、私たちは往々にして自己の内面を深く探求することを求められます。自己探求が生みだす混乱や苦悩と向き合い、それに適切に対処していくためには、時として臨床心理士等の専門家の支援を得ることが必要となります。しかし、残念なことに日本では、こうした成人期の発達に伴う危機や苦悩の意味を理解し、それに効果的に対処するための技術や能力をそなえた専門家はまだ十分に育っているとはいえません。成人発達という概念が広まり始めているこの時期にこそ、その実際に関して深い洞察をそなえた支援者や治療者が求められるのです。

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シャドー

「シャドー」(the shadow)とは、無意識化された人格の側面や要素を指す心理学の言葉です。私たちは、日常生活を生きる中で様々な想念、感情や衝動を経験します(例:「喜び」や「怒り」、「希望」や「失望」、そして、「憧れ」や「妬み」)。しかし、それらの中には、経験することそのものが大きな危険をもたらすものがあります。

例えば、職場において、上司から注意や叱責を受けた時に、抑えきれないほどの「憎悪」に襲われたとしたらどうでしょうか? もし憎悪を抑えられず、烈しい口調で上司に反論をしたり、暴力をふるってしまったらどうでしょう? その結果、職を失うだけでなく、最悪の場合、大きく人生を狂わされてしまうことになるかもしれません。

このように、私たちが日々の暮らしの中で経験する想念や感情や衝動には、それに吞み込まれてしまうと「危険」なものがあるのです。私たちはそのために普段から自身の内的な体験に注意を払い、社会生活を安定的に営んだり、目標を実現したりする上で「危険」をもたらすことになる想念や感情や衝動が生じた場合には、それを即座に制御し、無意識の領域に追いやろうとします。

こうした能力は、私たちが社会人として生活を維持していくために必須の能力です(もしあなたが直ぐに感情を爆発させて、暴力に訴える人物であったら、社会の中に居場所を見出すことは非常に難しくなることでしょう)。しかし、社会適応のために想念や感情や衝動を抑圧することにあまりにも長けてしまうと、自身の内的な声が聞こえなくなってしまう可能性があります。極端な場合は、今、自分自身が何を感じているのか(例:「満喫しているのか、あるいは、退屈しているのか」「充実しているのか、あるいは、疲弊しているのか」「嬉しいのか、あるいは、悲しいのか」)ということさえも判らなくなってしまうのです。社会的に不都合となるような想念や感情や衝動を徹底的に制御して、それらを心の奥底に封じ込めることに成功した結果として、それらを全く感じられなくなってしまうということです。

例えば、目標に向けて日々懸命に努力をしている時には、「もう疲労困憊で、これ以上努力できない」という心の声はしばしば排除されたり、抑圧されたりします。そうした排除や抑圧が長期間続けられる時、私たちはいつの間にか――実際には肉体や精神は疲弊しているにも関わらず――自らの状態に気づけなくなってしまうのです。しかし、「感じられない」ということは、「疲労していない」ということではありません。私たちは疲労に対する感覚を切ることには成功したかもしれませんが、疲労そのものを解消したわけではないのです。そして、それは私たちの気づかないところで、着実に肉体や精神を蝕んでいくことになるのです。

こうした状況が深刻なものになると、最終的には、肉体や精神の病としてあらわれたり、最悪の場合、過労死という形で顕在化することになります。その意味では、社会的に「不都合」なものを排除・抑圧することが――特にそれが過剰な時には――私たちの健康を損なう可能性があるといえます。そして、そのようにして無意識化されたもの(シャドー)は、私たちの人格のまぎれもない側面や要素でありながら、意識の外に追いやられ、気づかないうちに様々な「悪さ」をすることになるのです。

心理学においては、人間が健全な成長や発達を遂げていくためには、シャドーをあらためて意識化し再統合する必要があるといわれます。たとえそれがいかに「不都合」なものであるとしても、それはまぎれもない私たちの一部。単純に無意識化するのではなく、それらを意識化し、和解して生きていくことが求められるのです。「成人発達理論」でいわれる「成長」や「発達」を実現していくためには、そうした内的な探求と和解の作業が必要となるのです。

但し、シャドー領域の探求は、基本的に、この領域に造詣の深い専門家の支援を得ながら慎重に行われるべき活動となります(例:臨床心理士)。
そもそもシャドーとは、社会で生きる上で不都合であるからこそ無意識化されたものです。無意識化されているのにはそれなりの理由があるのです。例えば、深刻なトラウマに関する記憶が無意識化されている場合、それを意識して生きることが非常に困難であるからこそ、無意識化されている可能性があります。そうした記憶を無意識化することにより何とか精神を安定させているような場合、シャドーの探求は必然的に大きなリスクを伴うものとなります。それを意識化することそのものが精神を大きく動揺させてしまう可能性があるのです。こうした事情のために、シャドーを意識化して人格に統合する作業は基本的には慎重に営まれるべきプロセスとなるのです。シャドー領域の専門家の支援が必須となる所以です。

レクティカ(Lectica, Inc.)

レクティカ(Lectica, Inc.)は合衆国のマサチューセッツ州を本拠地として活動する発達測定を専門とする非営利団体です。この組織は、ハーヴァード教育大学院(Harvard Graduate School of Education)の発達心理学者(故)カート・フィッシャー(Kurt Fischer)のダイナミック・スキル理論(dynamic skill theory)にもとづいて、その共同研究者であるスィオ・ドーソン(Theo Dawson)やザッカリー・スタイン(Zachary Stein)が中心となって設立されました。

世界には様々な発達段階測定の方法が存在していますが(例:ロバート・キーガン(Robert Kegan)のthe Subject-Object interview、及び、スザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)のMaturity Assessment Profile)、レクティカの測定は、いわゆる「器」としての個人の人格的な構造ではなく、具体的な課題や問題に対処する際に発揮される「能力の質」を緻密に測定することが可能です。そのため、ビジネス等の実務領域で活躍する人達の能力開発を支えるツールとして非常に親和性が高いものです。

→詳細についてはリンクのLectica, Inc.のHPをご覧ください。

LDMA (Leadership Decision Making Assessment)

LDMAは、Lectica, Inc.が提供する発達段階測定の中でも、旗艦的な位置付けにあるアセスメントです。組織や共同体リーダーの総合的な思考能力の質を見極めるための効果的な測定であり、現在世界中で広く用いられています。また、世にある多くの発達段階測定では、個人の意識の「重心」(the center of gravity)を大まかに把握するものが殆どですが、LDMAでは複雑な状況で具体的な課題や問題に対処する際に発揮される重要能力のレベルに関して詳細な洞察が得られます。それらが、その後能力開発に取り組んでいく上での具体的なガイダンスとなるように設計されています。

Integral Vision & Practiceでは、多様な発達心理学者の知見に依拠しつつも、実際のクライアント支援においては、このLDMAを活用しています。

→詳細についてはリンクのLectica, Inc.のHPをご覧ください。