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千葉 聡の『ダーウィンの呪い』 を読んで

2024.01.28 Sunday

年末~年始に千葉 聡(2023)の『ダーウィンの呪い』 (講談社)を興味深く読んだ。

その内容は、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が歴史的に優生学的な発想や政策を支える理論として悪用されてきたことを辿るものである。

著者は総じて高い文章力をそなえた人ではあると思うが、部分的にーー特に著者の専門である進化生物学に関して言及する箇所においてはーー叙述が非常に言葉足らずになるところがあるために、読者としては混乱させられ、苛立ちを覚えるのだが(このあたりは完全に編集者の怠慢であろう)、この書籍の最も重要な箇所である中盤以降の優生学に関する議論に関しては、著者の問題意識が比較的に平易な言葉で熱く語られており、読者を魅惑し、また、深く考えさせる。

個人的に、この著書に惹かれた理由は、いうまでもなく、成人発達理論を日々の仕事の中で扱う立場にあるからである。

この数年のあいだ「成人発達理論」を様々な場面で紹介する中で「人間の成長・発達について研究する理論をいかに倫理的に扱うことができるか?」という問いがその重要性を急速に増していると実感する。

こうした理論に関する興味・関心が対人支援業界の中でひろく共有されるようになればなるほどに、その「魅力」に魅惑されて、その「危険性」に無意識になる危険性が高まっているように思われるからである。

危険性とは、即ち、この理論が、その利用の仕方によっては、優生学的に用いられる可能性があるということだ。

より具体的に言うならば、それは、特権的な立場にある人間が自身を基準にして人間の優劣を規定するための基準や枠組を作り、それにもとづいて人間を評価・選別・待遇する発想を根拠づけるものとして利用される可能性があるということである。

現代社会において「成功者」として位置づけられる人間を無批判に「高い」発達段階をそなえた優秀な人間として位置づけて、その特徴を人格的な成熟を示す条件や性質として錯覚するのである。

そして、そうした思考を正当化するために、発達理論が援用されるのである。

たとえば、いわゆる「ティール理論」が流行しはじめたばかりの頃は世の経営者達は自身を成功者と見做して、自身の性格や特性を高次の発達段階を示すものと判断して、周りの関係者(例:自組織の従業員)にそれらを習得するように奨励したり強要したりすることがあったと聞いているが、ここで謂わんとしているのは正にそうした発想である。

あるいは、悪名高いWorld Economic Forumもそれと同質の発想にもとづいて人類社会の再構築を企図しているといえる。

換言すれば、それは、その時代・社会の中で「富裕層」や「統治者」として社会的な権限や影響力を掌握した者達が、みずからの存在をとらえている意識や価値観や偏見にもとづいて社会を再構築しようとする発想である。

そして、人間の成長や発達に関する理論は、そうした発想を正当化するために用いられてしまうのである。

これまではそうした発想は「ダーウィンの進化論によれば……」という枕詞を添えて正当化されてきたが、今日においては、そこに「発達理論によれば……」という枕詞が加わる可能性が生まれてきているのである。

現在、Lectica, Inc.の主催する長期トレイニングに参加して、各国の研究者や実践者と定期的に対話をしているが、こうした問題に対して関係者は総じて非常に真摯に配慮しているようである。

実際、IQが歴史的に優生学的施策に活用されてきた事実を踏まえて、今日、技術的な進化に支えられて急速に高精度化している発達段階の測定技術を倫理的に用いるための方針についてトレイニングの中では議題としてしばしばとりあげられる。

いうまでもなく、この問いは多様な観点を通して検証探求されるべきものであるが、発達理論をあつかう者として特に留意すべきは、われわれがみずからが生きる時代や社会の中で信奉されている「物語」に半ば不可避的に呪縛されていることを自覚することであり、また、そこで「成長」や「成熟」を成し遂げた理想的な状態として設定されているものが、果たして理論的に妥当なものなのかを問うことである。

たとえば、数々の調査が示すように(c.f., Martha Stout (2005). The Sociopath Next Door: The Ruthless Versus the Rest of Us.)、現代社会はソシオパス/サイコパス的な人格特性をそなえた人間が成功しやすい場所であるが、そうした文脈の中で「成功者」として称賛されている者を「成長」や「成熟」の体現者と見做すことそのものが果たして妥当なことなのかという問いを発することが重要なのである。

みずからが生きる時代や社会の中でひろく営まれている「ゲーム」を前提として、そこで「勝利」を収めるための能力を獲得することが人間としての成長や成熟であると発想するのはーーそして、そうした発想を正当化するために心理学を利用するのはーーあまりにも短絡的であり、また、危険なことであろう。

確かに、人間は常に特定の時代や社会に生れ落とされ、その文脈の中で求められる「成長」や「発達」を実現するように鼓舞・強要されることになる。

しかし、人間はまたそうした文脈そのものを対象化して、それについて批判的に検証し超克できる存在でもある。

発達心理学の重要な役割のひとつは、正にそうした施策を支えることにあるといえる。

結局のところ、優生学的発想とは、そうした文脈の中でひろく共有されている物語に立脚して繰りひろげられている「ゲーム」に集団(例:民族・国家・企業)として勝利することができるように、そこに生きる人々を人為的に改良しようとする発想に起因するものである。

ケン・ウィルバー(Ken Wilber)のインテグラル思想においては、こうした発想は、個人を集合の構成要素として位置づけて、個人を純粋に全体の福利に貢献するための存在として見做す全体主義そのものとして理解される(その意味では、個人を生態系という全体の構成要素と見做して、全体の持続可能性のために個人の尊厳や権限を制限することを是とする今日の持続可能性思考は、そうした全体主義的な発想の亜種といえるのである)。

千葉は第7章で優生政策には大別して二つの種類があると説明している(pp. 193-194)。

①    「優秀」と見なした人々の「繁殖」を推奨し、遺伝的に「優れた」人の比率を増やす政策。これを正の優生政策という。
②    「劣る」と看做した人々を排除、あるいはその「繁殖」を抑制し、遺伝的に「劣った」人の比率を下げる政策。これを負の優生政策という。

富の格差が極大化しつつある今日の社会において、われわれがそこで展開される政治的な施策について検討していくうえで、それらの施策をーーその表面上の意図にかかわらずーーこうした優生学の知見を通して批判的に眺めることは非常に重要であるといえる。

たとえば、「それらの施策は、そこに生きる人間をどのような仕組や基準を用いて分類しようとするのか?、また、そのようにして分類されたそれぞれのグルプをどのように処遇しようとするのか?」――といった問いは、その表面的な装いに惑わされずに、それが社会にあたえる影響について的確に理解するためには、われわれが発すべき必須の問いといえるだろう。

今日の自己責任論が席巻する新自由主義社会の中では、経済的な競争の中で敗北した者達は、正にそのことをもって半ば自動的に繁殖を奨励すべきではない「劣った」存在として見做されて、困窮状態にいっそう追い込まれていくことになる(とりわけ、消費税は、そうした貧困層の再生産装置として非常に効果的に機能する)。

また、いうまでもなく、その背景には、非常に限定的な領域の能力に着目して人間を「勝者」と「敗者」に選別するための仕組として機能する学校制度が存在する。

油断をすると、発達理論のような理論は、こうした選別の実践に貢献するものとして利用されてしまうのである(実際、IQ測定は今日に至るまで正にそのようなものとして利用されている)。

また、成人を対象にした場合には、発達理論は、「成人発達理論」として装いを変えて、「優秀人材」と「劣等人材」を峻別して、社会の中で展開される経済競争というゲームに参加するための立場や役割を個々人に割り当てる機能を果たすことになる。

とりわけ、「能力主義」(meritocracy)を大義として、倫理的責任を一顧だにしない利己的な態度や発想が「優秀」といわれる階層にひろく蔓延する今日の状況の中では(こうした状況はしばしば「kakistocracy=government by the worst」と形容される)、活用の仕方を間違えば、成人発達理論は社会の格差の拡大に積極的に寄与することになってしまうことになる。

この領域の関係者(研究者・実践者)に倫理的な観点が求められる所以である。

また、こうした問題意識は、技術の急速な進歩により、人間の内面そのものが恒常的な監視と管理の対象となる監視社会が到来しようとしている今日の序社会状況下においては、ますますその重要性を増すことになるだろう。

正にわれわれの心そのものが戦場となろうとしているのである。

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