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日本人にとっての成人発達

斎藤 孝(2022)の『20歳の自分に伝えたい 知的生活のすすめ』(SB新書)という書籍を眺めていたところ、深く共感する記述があったので、備忘録としてメモしておきたい。

第1章に『なぜ昔の日本人には「人格の厚み」があったのか』という項目があるのだが、そこにこんな記述がある。



では、なぜ外部の目にさらされたとき、薄っぺらく感じさせられるのかといえば、それは現代人の内面世界が、その人自身の「気質」だけで構成されていて、その気質を下支えする土台や、柱・梁にあたるものがないからだと私は思います。

明治から昭和初期までの日本人には、近世以前からずっと積み重ねられてきた身体文化や精神文化を人格の土台、梁・柱として活かす素地がありました。

武士文化で考えてみましょう。武士というのは、自分たちの人格修養に関して、有利な立場にありました。なぜかといえば、彼らは宮本武蔵ほどの水準でなくても、剣術や弓、馬術の日常的な訓練を通じて、身体的な知性を自分の中に取り入れることができたからです。

『葉隠』に「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という有名なフレーズが出てきますが、こうした死を自分の生と隣り合わせのものと意識しながら生きていく精神文化を、物心ついたころから叩き込まれ、教え込まれていました。

こうしたものを日々の生活で人格として織り込まれていくことで、武士たちは彼ら個人の「気質」がどうであるかには関係なく、長じるに従い厚みのある「人格」を備えていくことができました。つまり、武士たちの個々の人格は、個人の資質ではなく、武士文化によってつくられたものなのです。

それに対して現代では、明治の近代化、そして敗戦によって生じた価値観の大転換によって、こうした身体文化・精神文化の継承が妨げられたために、個人が個人の資質だけで勝負しなければいけなくなってしまいました。これでは人格までも薄っぺらく見えてしまうのも、仕方がありません。(pp. 50-51)



換言すれば、人間の人格とは、純粋に個人の「中」にあるものではなく、個人を支える文化的な叡智の地層に支えられて存在しているということである。

そして、そうした地層との繋がりが断絶されてしまうとき、個人は、あたかも豊かな土壌との繋がりを絶たれた植物のように痩せ細ってしまうことになるのである。

また、そうした状況においては、われわれは、人間の人格というものが、己の「中」に知識や経験や能力という「内容物」(contents)を蓄えた結果として成立するものとしてみなすようになる。

少しでも希少価値のある知識や経験や能力を少しでも多く獲得することが、自己の人格を高めることだと錯覚してしまうのである。

また、そこでは、そうしたものを獲得することは、あくまでも「自己責任」において為されるべきものとしてみなされることになる。

たとえば、今日、巷でもてはやされている「生涯学習」や「自律的人材」といった言葉に象徴される「勉強」や「成長」や「発達」に対する脅迫的ともいえる関心は、人間の「人格」を実質的に「市場価値」と混同したうえで、そこに収納されている内容物を少しでも希少価値のあるものに更新しつづけることを善として妄信する危ういものといえるだろう。

自己の「外」にある資源を少しでも多く自己の「内」に摂り込むことに必死になるのである。

そこに息づいているのは、歴史的に継承されてきた豊かな文化的土壌と切り離されることが不可避的にもたらす己の矮小さに対する感覚であり、また、それがもたらす漠然とした不安である。

それを克服しようと、われわれは必死に己の「中」に知識や体験や能力といわれる「内容物」を搔き集めようとするのである。

しかし、こうした態度にもとづいて己を高めることに執着している限り、われわれは真に満たされることはない。

あえていえば、それは、土壌に根を張り、そこに存在する豊穣な叡智の遺産にアクセスすることを忘れて、「書籍」や「トレイニング」や「授業」といった人工的なパッケージの中に自己を満たすための栄養源を探そうとすることに喩えることができるだろう。

たとえそうした営みが一定の価値や効果をもつとしても、本質的なところでは、虚しさが付きまとうことになるのである。

そして、そうした状態にとらわれていると、われわれは、個人を下支えしてくれる文化的土壌に繋がることを忘れてしまうだけでなく、そうした公共の土壌を豊かにするための努力を怠ることにもなる。

結果として、その社会に生きる者全てが、己の「中」に「内容物」を詰め込むことに必死になり、個人を下支えしてくれるはずの共有財を豊かにすることには無関心になるのである。



こうした問題は、われわれの「発達」という概念の理解にも大きく関連している。

今日、巷では「成人発達理論」がひろく注目を集めているが、「発達」という概念に関する深刻な誤解もひろく存在しているように思われる。

その中でも特徴的なのが、ここで指摘しているように、発達というものを個人の「中」に起こるものとしてとらえる発想である。

必然的に、そうした発想にとらわれてしまうと、発達を実現するために、少しでも多くの知識や経験を得たり、訓練や探求を積んだりすることばかりに関心が向いてしまうことになる。

発達について考えるときには、そうした自力的な営みだけに視野狭窄してしまうのではなく、これまでの歴史をとおして蓄積されてきた叡智の大河に根を降ろし、それに自己の存在を明け渡すことをとおして高められたり、深められたりすることの価値を併せて認識する必要があるのである。

実際、発達理論の基礎に息づいているのは、発達というものが常に環境との相互作用の中で展開するものであることを見つめる発想である。

換言すれば、発達について考えるとは、個の「中」で起こる発達について考えるだけでなく、個が環境とのあいだにどのような関係を営んでいるかをみつめることなのである。

端的に言えば、個の発達について語るためには、個をとりまく環境について洞察することが、そして、それがどのような影響を発達のプロセスにもたらしているかを検討することが求められるのである。

たとえば、今日においては、われわれ日本人は、歴史的な文化遺産から疎外されてしまい、己の市場価値を高めることを至上の命令と受け留めて、最新の知識やトレイニングや経験を収集することに夢中になっている。

当然のことながら、こうした態度は、われわれの人格の構造に大きな影響をあたえることになる。

即ち、今日、われわれが知識や教養として得ているのは、あくまでも目の前の経済活動に資する実利的・実用的なそれであり、われわれの価値観や世界観を形成するための叡智は往々にして蔑ろにされるのである。

また、そうした価値観や世界観を下支えすることになる身体性や霊性を涵養するための実践もほとんど顧みられることはない。

これは、Lectica, Inc.の研究を参照するならば、堅牢な「具体」の基盤を構築することなしに、過剰なまでにーーまた時期尚早にーー「抽象」を肥大化させた人格を生み出すことになる。

そして、半ば必然的に、発達のプロセスそのものを頓挫させることになるのである。



発達をするとは、ある意味では、外部との関係性を高めていくことである。

換言すれば、それは外部に対する依存度を高めていくことであるともいえるかもしれない。

優れた言語能力は、その共同体で語られている言語を内面化することにより可能となる。

それはその言語に自己の存在をひらき、それにより自己の意識と思考が形成されること受け容れることで可能となるのである。

優れた日本語の話者は、日本語という豊穣な伝統を知り尽くし、それを駆使して己の意思を表現する。

あるいは、優れたオーケストラの指揮者は、卓越した音楽家と緊密な関係を築き、彼等に能力を最大限に発揮してもらうことで自己の音楽を最高の形態で表現しようとする。

高い木は土壌に深く根を張り、土壌との関係を緊密にして、そこにある栄養に依存している。

自己の「外」にあるものと緊密に結びつくことをとおして、「能力」は発揮されるのである。

とりわけ、それが高度なものであればあるほどその結びつきは深いものとなる。

そうした意味では、個の能力とは、単純にその人の「中」にあるのではなく、その人をとりまく多種多様な要素が結びつき、それらの全てが緊密に共同・共奏するプロセスの中に顕在化するものなのである。

能力を高いレベルで発揮しようとすればするほど、われわれはそうした関係性に深く繋がる必要がある(これは、密室でひとり深く熟考しながら文章を執筆するときにも当てはまることになるーーそこでは執筆者は人類の叡智に深く繋がっているのである)。



こうしたことを鑑みれば、発達志向型支援というものが、本質的に、単純にクライアントを個人として支援するだけでなく、クライアントをとりまく「文脈」(context)を視野に容れて、それとの相互関係を豊かにするための支援となることが理解することできるだろう。

また、クライアントに対しては、そうした相互関係を通して自己を成長させるだけでなく、そこに共同や共奏の仲間や同士となる他者に貢献するように動機づけることも重要になる。

そうした循環が生まれるときに、はじめてわれわれはLectica, Inc.が示すVirtuous Cycle of Learningを廻すことができるのである。



但し、冒頭の引用の中で斎藤 孝が指摘しているように、今日、われわれ日本人が繋がることができているのは、われわれの身体性や霊性と乖離したものとして包装された抽象的な知識や技術や教養に傾斜している。

今、巷で「リベラル・アーツ」の重要性が叫ばれているのは、こうした状況を鑑みてのことであろう。

ただ、そこに問題があるとすれば、それは、そうしたまなびそのものがこれまでのそれと同じようなものとしてみなされていることにあるということだ。

己の「中」に希少価値のある知識や教養を収集することが目的化してしまっているのである。

また、そこには身体性や霊性といった要素が欠如しているために、学習者の死生観をはじめとする実存的な基盤を豊かにすることに十全に寄与しえない。

単に己の「人材」として市場価値を高めるための道具に堕してしまう可能性があるのである。



こうした問題は、今後、日本という文脈において成人発達について真剣に検討していくうえで真に重要なものとなるだろう。

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