加藤 洋平さんの「文明学と成人発達理論」
友人の加藤 洋平さんが、先日、Entrepreneur Factoryの主催で下記のイベントを開催した。
文明学と成人発達理論
〜文明の治癒と変容に向けた成人発達理論の意義の再考〜
https://www.enfac.co.jp/archive/projects/reading-group/
非常に意義のあるイベントであるが、その録画動画が無料で視聴できるので、ここで紹介したいと思う。
今回のイベントでは、韓国系ドイツ人思想家のビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han・BCH)の著作の内容に言及しながら、加藤さんが現在探求をしている現代文明の構造的な課題・問題に関する対話が行われている。
発達理論において「後慣習的段階」(post-conventional stages)といわれる段階に到達すると、人間はしばしば個としての自己の存在をより俯瞰的な視野からとらえ、それを同時代の集合的なダイナミクスの中に立ち上がるものとしてとらえるようになる。
個としての自己の存在に対して責任をとるためには、それをとりまき、また、それを貫く時代的・社会的な文脈に対して洞察を深めて、それと対話や対決をすることが必要となることを悟るのである。
そうした意味では、人間の成長・発達に関して探求を進めていくうえで、文明論的な視点にもとづいて思索を深めることは必須の作業となるといえるのである。
このイベントでは、加藤さんはBCHという現代思想家の思想をとりあげているが、その思想の核にある問題意識とは、「新自由主義」(neo-liberalism)といわれる思想が人類社会を席巻する中でもたらされた深刻な災禍――それはまぎれもなく人類の死に至る災禍と形容できよう――を指摘して、それを超克するための方途を探ることにある。
BCHの思想について眺めるときに、個人的にとりわけ感心するのは、「”can”の圧政」(the tyranny of can)とでも形容できる現代社会の病理を実に的確に浮き彫りにしていることである。
人間の存在を「should/should not」で縛ろうとしていた時代は終わり、「can」で呪縛しようとする時代が到来しているというその指摘の重要性は強調してもしきれないものである。
今日、資本主義社会に生きる者達は、日常生活を通じて自己の可能性を発見して、それを開発・実現するように鼓舞されつづけることになる。
われわれは生涯を通じて学びつづけ、生涯を通じて自己実現をし、そして、生涯を通じて価値を生み出しつづけるように鼓舞されつづけるのである。
こうしたメッセージに半ば恒常的に晒されることにより、われわれはいつの間にか自己の存在を開発の対象としてとらえ、その機能性を高めるために果てしない努力をするように導かれていくことになるのである。
そこでは、自己に潜在する可能性を探求し、実現していくために、自己そのものを資源として見做して、それを開発・搾取しつづけることを善しとする態度を習得するように訓練されることになる。
人間の成長や発達について探求をする発達理論(また、人間性心理学やポジティヴ心理学やトランスパーソナル心理学もそれに加えることができるだろう)は、こうした時代的・社会的な文脈の中では、容易にこうした成長主義的・発達主義的な態度を補強・増幅するものと化してしまう危険性を秘めている。
とりわけ、「can」を核とするメッセージの危険性とは、それが限界をもたないことにある。
人間の可能性は無限であり、あなたは諦めることなくそれを実現するために果てしなく努力をしつづける必要があるのである(そして、それはまたそのまま社会への貢献をすることになるのである)――こうしたメッセージの呪縛のもと、現代人は成長・発達に対する脅迫的な衝動にとらわれて生きることになるのである(たとえば、Angela Duckworthが提唱した「grit」の概念はこうした文脈でとらえることができるだろう)。
結局のところ、現代社会において成熟して在るとは、刻々と変化する社会の中で自己の能力を開発しつづけ、価値創造者としての機能性と有用性を高めつづける主体的・自律的な存在であることなのである。
そして、そこでは、そのような機能性をこえた視点を通して自己の存在をとらえようとする感性や価値観や態度は支持を得ようがないのである。
たとえば、こうした文脈においては、精神的・肉体的な障害は、そうした高い機能性を発揮するための障害物として見做されることになる。
また、そうした「障害物」を克服しようとしないことは「怠惰」や「病気」であり、それは批判や非難や治療や排除の対象としてみなされるのである。
これはある意味では「ソフトな優生主義」と形容できるものである。
今回の加藤さんのイベントの意義とは、正にこうした現代の病理に光を当てるところにあるといえるだろう。
即ち、発達理論をはじめとして、人間の成長・発達に関心を寄せる者が知らず知らずのうちに絡めとられことになる集合的なダイナミクスに目を向け、それを超克するための方途を探るためのきっかけをもたしてくれるのである。
実際、こうした文明論的な視点は、純粋に発達心理学に触れているだけではなかなか獲得されないものである。
そのためには、どうしてもこうした集合領域の深層構造に目の向ける学問(例:社会学)の叡智に触れる必要があるのである。
事実、ここ20年程のあいだに成人発達理論はひろく受容されるようになったが、往々にして、それは正にBCHが指摘するような成長至上主義的・発達至上主義的な発想の枠組の中で理解されている。
後慣習的段階の重要性を謳いながらも、実際には、自己の存在を呪縛する価値観や世界観(pre-analytic vision)に囚われたままこの理論を運用しているのである(その意味では、その運用の在り方は慣習的段階のそれということができるだろう)。
端的に言えば、少し間違うと、成長や発達の価値を謳う成人発達理論は――とりわけ今日の時代的・社会的な文脈の中では――人間存在の搾取に加担するものになってしまうのである。
こうしたことを鑑みても、発達理論を学ぶ者が、その隣接領域に注意を向けて、発達理論に内在する限界や盲点を照明してくれる洞察に触れることは非常に大きな価値をもつのである。