1. HOME
  2. ブログ
  3. 各種講座・ワークショップ
  4. 推薦:『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』 by 加藤 洋平

BLOG

ブログ

各種講座・ワークショップ

推薦:『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』 by 加藤 洋平

加藤 洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』(日本能率協会マネジメントセンター)

成人発達理論を用いて同時代の社会・文明を批判的に考察し、そこに存在する課題や問題を克服していくための解を提言する非常に野心的、且つ、先駆的な作品である。
ここ10年程のあいだに、日本でも成人発達理論がひろく注目を集めるようになっているが、基本的には、ビジネス領域における人材支援の方法論のひとつとして受け留められている。
しかし、この理論の視野は非常にひろく、その洞察は、そうした「実務」の領域だけでなく、「行政」や「教育」や「福祉」をはじめとするいわゆる「非営利」の領域に有効となるだけでなく、また、正にこの著書がそうであるように、「社会」や「文明」といった集合的な主題について検討するうえでも非常に大きな力を発揮する。
そして、加藤 洋平氏による本書は、そうした集合的な領域において、今日 人類が直面する課題や問題について正面から考察した本格的な書籍としては日本語では初めてのものとなる。
こうした意図にもとづいて、発達理論に精通した研究者・実践者によってまとめられた著書としては、例えば現代思想家のケン・ウィルバーや教育学者のザッカリー・スタインのそれが存在するが、ここ数年の社会情勢を勘案して、今 現在進行形で展開する変化について考察をしているという点においては、それらの中でも同時代の現実との関連性がひときわ高いものとなっているといえる。
「人新世」(Anthropocene)という言葉が注目を集めているように、今 巷では人類の「社会」や「文明」をメタ的な視野を通して批判的に眺めようという機運が高まりつつあるようだ(実際、日本でもその関連書がベストセラーになっていると聞いている)。
しかし、ここで注意すべきは、同時代の集合的な変化をとらえるうえで、自らがいかなる思想的なフレイムワークに立脚して思考をしているかということである。
往々にしてそうしたフレイムワークは無意識化されており、われわれをその呪縛の中で思考をすることになってしまうのである。
例えば、今日のそうした話題に関する議論においては、総じて今日の急速な情報通信技術(Information & Communication Technology・ICT)の進化を所与の条件として――即ち、適応すべき条件として――とらえることになる。
そして、それをいかに効果的に統合しながら人類社会の「進化」を促していくかという単純な思考に陥っていくことになるのである。
端的に言えば、今日の社会が、人間の個人的・組織的な行動をシステムの管理下に置く――正に思想家のミッシェル・フーコーが警鐘を鳴らしたような――全方位型監視社会に向けて邁進していくことを前提とした発想だけが幅を効かせていくのである(その意味では、「中央銀行デジタル通貨」も、「社会信用システム」も、「スマート・シティ構想」も、発想の基本は同じものといえる)。
こうした発想はしばしば「そうした緻密な管理制度こそが、人類社会の持続可能性を実現するために必要となるのだ」という思考を拠所として自己正当化する傾向にあるが、実は、そうした発想が全体主義(totalitarianism)そのものであることには無自覚である(wikipediaによれば、「全体主義とは、個人の自由や社会集団の自律性を認めず、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制である」という)。
実際、いわゆる「エコロジー思想」は、個人を全体の部分として位置づけ、全体の生存のために個人の尊厳を積極的に制限すべきであるという全体主義的発想と非常に相性がいい。
現代思想家のケン・ウィルバーは、こうした発想を、「機能的適応」(functional fit)の価値が世界全体を支配することを奨励する発想と診断したが、例えば今日 巷を賑わしている「持続可能な開発目標」(the Sustainable Development Goals・SDGs)は、一歩間違えば、容易にこうした全体主義的発想の温床となりえることについては、ほとんど顧みられていない。
今日の資本主義社会は実質的に「監視型資本主義」(surveillance capitalism)社会と形容できる状況に陥っているが、消費者達は自身が監視と搾取の対象に貶められていることに対して健全な違和感を抱く感性と能力を半ば完全に剥奪されている。
また、こうした体制下において、個人は自己の「機能的存在」(「価値生産者」)としての有用性(「機能」「能力」「態度」)を高め、激化する競争の中で淘汰されないように常に「自己実現」という「プロジェクト」に積極的・献身的にとりくむことを覚えていくことになる。
そうした行動様式を奨励するのは、表面的には、資本主義の論理であり、持続可能性の論理であるが、そうした表面的な装いの核心に息づくのは、人間存在を全面的に可視化し、解析・評価し、意図的な操作の対象として位置づけるダイナミクスである。
こうしたダイナミクスを、例えばケン・ウィルバーが「フラットランド」のそれと、そして、ルドルフ・シュタイナーは「アーリマン」のそれと形容しているが、その本質はこの世界そのものを物化していこうとする飽くなき衝動にあるといえるだろう。
そして、人類の「社会」や「文明」をメタ的な視野を通して眺めようとする今日の議論は徹頭徹尾こうしたダイナミクスの呪縛下において営まれているのである。
換言すれば、自己の意識と存在を、そして、発想と思考を支え囚えているダイナミクスに無自覚のままにあまりにも無邪気に無防備に行われているのである。
しかし、ここで注意すべきは、同時代の集合的な変化をとらえるうえで、自らがいかなる思想的なフレイムワークに立脚して思考をしているかということである。
こうした議論に成人発達理論の洞察を持ち込むことの意義は、正にこうした無意識的な思想的コミットメントを意識化することを可能にするというところにあるといえるだろう。
成人発達理論は、われわれがこの時代の集合的な課題や問題について思考するうえで、そうした思考活動を営んでいる意識(意識構造・認知構造)そのものに目を向けて、そこに内在する特性や傾向とその課題や問題に対峙するように促してくれる。
そうした深い内省無しには(こうした類の内省をWilliam Torbertはtriple-loop learningと形容している)、結局は、われわれは自己を呪縛している思想の囚人として思考することしかできないのである。
そして、このように自己を呪縛された存在としてとらえ、そこに問題意識を維持しながら探求を深めていくことができる発達段階を後慣習的段階(post-conventional stage)というのである。
換言すれば、こうした内省が欠如したままでは、たとえ「改革」や「創造」や「変革」を意図したとしても、われわれの思考は、あたえられた慣性の法則に従うように、あるいは、かけられた催眠の誘導に従うように、自動反応的に展開していくことになるのである。
その意味では、真に精神の自由を獲得し思考するためには、発達理論の洞察が大きな価値をもたらしてくれるのである。

このたび出版された加藤 洋平さんの著作は、これまで主にビジネスの文脈で消費されてきた成人発達理論を「社会」や「文明」という集合的な文脈の課題や問題について考えるための概念的道具として大きく飛躍させてくれる画期的な作品といえる。
特に、これまでに発達理論に触れながらも、その価値をあくまでも人事領域の課題や問題に対処するための道具として位置づけてきた方法論として把握してきた方々にとっては、これまでの認識を刷新してくれる刺激的な洞察をあたえてくれるだろう。
本書がひとりでも多くの読者を獲得することを願ってやまない。

関連記事