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何が発達をもたらすのか

発達心理学の研究者達によれば、いわゆる「発達段階」を直接に高めることはできないという。
われわれにできるのは、小さな具体的なスキルの習得を地道に継続することだけである。
即ち、みずからが置かれた環境においてわれわれに突きつけられる課題や問題に向き合い、それらに対処していくために具体的なスキルを習得しつづけることが、結果として、発達心理学が言うところの「発達」をもたらすのである。
発達心理学の関係書を読んで、みずからがめざす発達段階の概要を理解することは、実は、あらたな「知識」(contents)を覚えることにはなるが、必ずしもそれを体得することにはならないのである。
これは発達という現象について考える際にわれわれがまず考慮すべきことである。
ただし、研究者達と会話をしていると、単にスキルを習得することが発達をもたらすものでもないようである。
たとえば、非常にたくさんのスキルを習得しているが、それらが統合されていないために、実際の課題や問題の解決に適用できないかたちで保持されているという場合には、あらたにスキルを習得するのではなく、あえてそうした勉強や訓練を止めて、己の中にあるスキルを整理するためのトレイニングをすることが有効になる。
端的に言えば、あえて学びを止めることが必要とされる場面もあるのである。
また、様々なスキルの中でも、「探求するためのスキル」と「統合するためのスキル」というような異なるカテゴリーのスキルが存在する。
たとえば、意思疎通において、われわれは他者と対話をして、あいての意図や想いや欲求に耳を澄ませ、そこに息づく真実や本質を探究・把握していくことになる。
しかし、複雑な人間関係の中で求められるのはそれだけでなく、そうした意志疎通を通して、把握された多様な視点を関係づけることにより、共通の理解や認識を醸成していくことも求められる。
即ち、ひろく意識を拡散して、そこに存在する多様な視点を認識・探求・理解する「外向的」なベクトルをもつスキルを活用するだけでなく、そのようにして得られた洞察を統合したり、関係づけたり、融合したりする「内向的」なベクトルのスキルを活用することが求められるのである。
そして、発達というものが、様々な要素をネットワーク状に繋げあらたな全体(whole)を構築する中に創発する現象であるとするならば、とりわけ後者のスキルが重要になるといえるだろう。
Lectica, Inc.の概念を用いるならば、「perspective seeking」や「perspective taking」にくわえて、「perspective coordination」のスキルが重要になるのである。
もちろん、これは言うまでもないことだが、統合ができるまえには、まず統合の対象となるスキルを十分に習得する必要がある。
その領域において必要となる具体的なスキルを幅ひろく習得したときに、はじめてそれらを統合することができるのである。
何も無いところに統合は起こりえないのである。
その意味では、重要なことは、みずからが今どの段階にいるのかを把握することであろう。
それを的確に見極めることが、学びを効果的に進めていくために必要になるのである。

そして、こうした文脈の中でもうひとつ重要になるのが、「身体性」の領域である。
今回、Integral Vision & Practiceの主催で『「心」と「身体」のダイアローグ』という公開対談プログラムを小笠原 和葉さん・柏原 里美さんと開催したのだが、あらためて人間の成長や発達において「躰」の重要性を認識させられた。

現代思想家のケン・ウィルバーが指摘するように、現代人の人格形成において非常に深刻な課題となるのが、自我が確立する過程で「心」と「躰」が断絶する傾向にあるということである。
特に深刻なのが、肥大化した思考が、みずからが造りあげた妄想にとらわれ、現実と乖離した構想や夢や計画に呪縛されてしまうことである。
みずからが「合理的」「論理的」「科学的」な思考を駆使して造りあげた妄想を現実と錯覚してしまうのである。
結果として、みずからの正しさに対する揺るぎない確信に囚われた状態の中で生きることになってしまうのである。
思考とは怖いもので、後で振り返ると途轍もなく愚かな構想や計画でも、それを信奉する者はそれを完璧に合理的・論理的に正当化することができるのである。
実際、21世紀の人類社会は正にそのようにして造られた妄想の檻に恒常的に閉じ込められた状態にあるといえるだろう。
こうした状況において、われわれを現実にひきもどしてくれるのが身体性である。
それは実存的存在として生きることの揺るぎないリアリティにわれわれを回帰させてくれるのである。
たとえば、長年にわたり昇進をめざして全身全霊で業務活動に邁進してきた者があるとき不治の病に侵されていたことを告知されたとしよう。
そのとき、その人はそれまでにみずからを支えてくれた構想や夢や計画の呪縛から醒めて真の意味の現実に立ち返ることだろう。
たとえそれらの構想や夢や計画がどれほど合理的・論理的なものであろうとも、躰がもたらしてくれる真実の前には脆いものなのである。

人間の発達は、理想的には、具体領域に強靭にねづいた基盤のうえに抽象性を築きあげていくプロセスを採ることになる。
しかし、実際には、現代人は往々にして具体領域を十全に体験することなく、抽象領域に呑み込まれていくことになる(たとえば、それは、図鑑で動物の写真を眺めているだけで、実際にはそれらの動物を見たことも触ったこともない状態に喩えることができるだろう)。
それは、また、具体領域とのつながりを担保してくれる身体性そのものを軽視する態度を醸成して、われわれを視野狭窄させていく。
くわえて、こうした基盤を喪失した成長・発達は、たとえある程度のところまでは展開しえたとしても、最終的にはその可能性を開花させることなく途中で停滞することになるのである。

こうしたことを考慮すると、人間の成長・発達について考えるうえで、躰の重要性を念頭に置きつづけることは必須の責務であるといえるだろう。
確かに、身体性を伴わない思考は存在しえないが、同時に身体性という現実を軽視・否定する思考は存在する。
結果として、身体性がもたらしてくれる叡智に抗う抑圧的な思考形態に陥ることになるのである。
Lectica, Inc.の研究者達が指摘するように、人間の発達とは建築物を建てることに似ている。
基礎工事を疎かにして、いそいで階層を積み重ねていこうとしても、どこかで基盤の脆弱さがプロセスを止めることになる。
また、人間という生き物は、高次の発達段階に到達すると、どうしても己を支えてくれる基盤の存在を軽視しはじめるものである。
それゆえに、さらなる高みに昇ることばかりに夢中になり、降りることが求められるときにおいても、そのことに気づくことができず、発達のプロセスを疎外してしまう。
上昇するためには、下降することが必要になる。
それが人間の発達の鉄則である。
そして、また、現代人を呪縛する「下降を忌避する態度」は、われわれを蝕み、みずからが造りあげた妄想の檻の中に捕らえつづけている。

人間の発達には、「ひろげること」と「収束すること」、そして、「昇ること」と「降りること」が必要になるのだ。

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